25.嘘つき
「奥様は……どう、するの?」
「あいつとは……離縁するよ。ずっとそう言ってただろう?」
息を切らしながらロイヤが訊ねると、カスペル侯爵は大きく息を吐いて答えた。
カスペル侯爵がかすかに苛立っているのは、目的を果たしたからだろう。
だがロイヤは気付かずにすがるような声で続けた。
「ずっとあなたはそう言ってたわ。だけど今も別れていないじゃない! 私はもうあなた以外の人とは結婚できないのよ? もし本当に妊娠したらどうすればいいの?」
「今までは娘のことがあったからさ。だが陛下にきっぱり断られてしまっては、これ以上妻と一緒にいる理由もないんだ。むしろ君が妊娠してくれたら嬉しいよ」
よくある男女の愁嘆場に発展したことで、アリエスは小さくため息を吐いた。
本当に恋は人を愚かで馬鹿な生き物にする。
どう考えてもカスペル侯爵の言葉は、ロイヤのスカートの中に入り込むための嘘だろう。
しかし王子殿下の婚約者の父親になるためになら、嘘を本当にするかもしれない。
だから面倒なロイヤの訴えを優しく宥め始めたのかもと考えていたアリエスの予想は外れた。
「イレーン・マルケス夫人のことはどう思う?」
「……イレーン? あの人のことは大嫌いよ」
「君は嫌いな人ばかりだな」
「だってあの人、たかだか男爵未亡人の分際で、ちやほやされていい気になっているんだもの。何が聖女様よ。たまたま王妃様に取り立てられただけのただの神職者の娘じゃない。マルケス夫人に看取られて、王妃様は心安らかに眠られたなんて誰が言い出したんだか。王妃様もまさかあの未亡人が自分の座にとって代わろうとしているなんてお知りになったら、安らかに眠ることもできないでしょうね」
女官服を整えているらしい衣擦れの音とともに、ロイヤの辛辣な声が聞こえる。
アリエスはカスペル侯爵の愉快そうな笑い声を聞きながら、ちらりとジークに視線を向けた。
マルケス夫人とは、亡くなった王妃様付きの女官で、いつも微笑みを絶やさず困っている者がいればどんな身分の相手にも優しく親身に接することから多くの支持者を得ているのだ。
その支持者の中には身分の高い――国王に近い立場の者も多く、マルケス夫人を次の王妃にと薦めているらしい。
ジークは不敵に笑ってみせてから、また二人の会話に耳を傾けた。
「私にとってもマルケス夫人は邪魔なんだよ。あの女さえいなければ、娘を陛下の再婚相手にっていう話ももっとうまくやれたさ。賛同者を得るためにどれだけ金をばらまいたと思っているんだ、まったく」
「要するに、イレーンを排除したいのね?」
「さすが君は話が早くて助かるよ」
「私たちの娘のためだもの」
「――ああ、その通りだ」
ずいぶん気の早い話だなと思いながら、アリエスは作業を続けた。
しかも、これから生まれてくるかもしれないカスペル侯爵の娘の母親候補を、アリエスは他にも知っていた。――正妻であるカスペル侯爵夫人を除いて。
ロイヤとカスペル侯爵は名残を惜しむように睦み合っていたが、やがて資料室から出ていった。
そこでようやくアリエスは窓台から下りて窓を開ける。
「悪趣味だな」
「でも面白かったでしょう?」
「ああ、それには文句をつけようがないな。カスペル侯爵は父親が偉大だったために、重圧もあったんだろうが、ずいぶん野心を抱いているようだ」
「分不相応のね」
「相変わらず厳しいな」
むせかえるような空気を入れ替えるために、アリエスは次々に窓を開けながら、ジークに答えた。
ジークは手伝いながらくっくと笑う。
「カスペル侯爵にはさっさと息子に家督を譲って、隠居してもらったほうがいいのかもな」
「息子? 確か近衛騎士だったわよね。政務官の道には進まずに」
「父親よりは能力がありそうだぞ。子供の頃はかなり優秀で、祖父似だと言われていたらしい。だが、おそらく父親に遠慮して騎士になることを選んだんだろう。質実剛健、清廉潔白で騎士としても申し分ないそうだ」
「……へえ」
アリエスは気のない返事をして、室内の確認を続けた。
どうやらロイヤたちの〝愛〟による被害はないようだ。
「さあ、休憩はもう十分取ったでしょう? さっさと仕事に戻ったらどうかしら?」
「それもそうだな。彼女が女官長を連れて戻ってこないうちに退散するよ」
十分に時間を潰したジークは素直に扉へと向かった。
そこでアリエスはふと思いついて声をかける。
「明後日のこのくらいの時間、私は王妃様の庭を散策する予定よ」
「……それは誘っているのか?」
ジークの問いかけに、アリエスは肩を竦めただけだった。
王妃様の庭とは亡くなった王妃が生前愛した小さな庭で、立ち入りが禁止されているわけではないが散策する人は少ない。
王宮には他にいくつも庭があるので、皆はそちらで花と緑を楽しんでいる。
ジークは答えを求めていなかったのか、軽く手を振って後ろ手に扉を閉めた。
途端に室内は静寂に満ち、風に揺れるカーテンの隙間から漏れる光がちらちらと壁や床を照らす。
そろそろ窓を閉めようかと扉に背を向けたとき、二つの足音が聞こえた。
「クローヤル女史!」
「はい、何でしょう?」
「……何をしているの?」
「室内の換気です。所用で少し出ておりましたら、なぜか資料室内に嫌な臭いがこもっておりましたので」
勢いよく入ってきた女官長は、アリエスが部屋にいることに驚いたようだ。
ちらっとロイヤに責めるような視線を向ける。
アリエスはしれっと答えて、いったいどうしたのかと問うように首を傾げた。
目を細めた女官長は、アリエスの言うことが正しいのかと確かめるように、鼻をくんくんさせ顔をしかめる。
「あ、あなたはいつもここにいないじゃない!」
「いつも? いいえ、そのようなことはないと思いますが? 傷んでいる本の修繕も進んでおりますし、目録作りもしております。ロイヤさんはなぜそのようなことをおっしゃるのですか?」
気まずさを紛らわすようにロイヤがアリエスを責めた。
しかし、アリエスはわけがわからないといった様子で答え、ロイヤをまっすぐに見返す。
「ロイヤさん、髪の毛がずいぶん乱れているようですわ。ひょっとして窓を開けているせいかしら?」
「え!?」
焦るロイヤに背を向けて、たいして吹いていない風を遮るために、アリエスは窓を閉め始めた。
女官長は落ち着きのないロイヤを睨みつけ、本来ならロイヤへ向かうべき苛立ちをアリエスにぶつけた。
「まだ私が話している途中でしょう! 真っすぐにこちらを見て聞きなさい!」
「はい、申し訳ありません」
「あなたは昨夜、ロイヤにかなり下品なことを言ったそうね?」
「申し訳ございません」
「謝ればいいってものじゃありません! ロイヤは未婚女性なのです! そのような女性に、淑女の見本たるべき女官のあなたが皆の前であのようなことを言うなど、どれだけ破廉恥なことかわかっているの!?」
「あのような、とはどの言葉でしょう?」
「全てです!」
苛立ちが怒りに変わったようで、女官長は資料室の床をドンっと踏みしめた。
また床が傷つくな、と思いながらアリエスは怯えているように身を縮めて俯いた。
「ロイヤはあなたと違って、純真で真面目な淑女なの! 今後一切、ロイヤに下品な――生意気な口をきくことは許しませんからね!」
「……わかりました」
噴き出さないように堪えていたおかげで、アリエスの声は震えていた。
女官長は満足したのか、ふんっと一度大きく鼻を鳴らして踵を返す。
その態度こそ淑女らしくないが、アリエスは何も言わなかった。
ロイヤは女官長のあとを追いながら勝ち誇った笑みをアリエスに向け、資料室から再び去っていった。