14.使用人たち
回廊を歩いていたアリエスは、ふと例の場所に目を向けた。
イヤオルが殺された場所は密会に利用されることはなくなったらしいが、夜の密会ついでに肝試し場所としては盛況らしい。
(ほんと、人間って醜悪よね……。まあ、私もだけど)
まるで今にもステップを踏みそうなほどに浮かれた気分でアリエスは回廊を抜け、使用人棟に入った。
もちろん他人からは、無表情なまま歩いているだけにしか見えない。
使用人棟は一日の仕事を終えて食堂へ向かう人たちが多く、賑わっていた。
そこに女性のひび割れた低い声が響く。
「ほんとにあんたは鈍臭い娘だね! 夕食は抜きだって言っただろ! さっさと仕事を終わらせて部屋へ帰りな!」
怒鳴りつけているのはメイド長のドロタだ。
アリエスはドロタに見つからないように――メイドでないとばれてしまうので、いつも避けている。
幸い野次馬でドロタの周囲には壁ができており、通り抜けるのは簡単だった。
「またフロリスが叱られてるのか」
「あれは叱られているんじゃなくて、虐めだよ。ドロタの新入り虐めも恒例だけど、フロリスはずいぶん長いね」
「実際、フロリスは鈍臭いからな。それでどこでも虐められてるのさ」
通りがかりに聞こえた話にアリエスは興味を引かれ、ちょっとだけ立ち止まって中心を見た。
ドロタはでっぷりと太っていて、神経質なほど痩せている女官長とは正反対なのだが、仲はいいらしい。
ひどく叩かれたのか、頬を腫らした貧弱な娘がドロタの前に膝をついて謝罪している。
運んでいた洗濯かごをひっくり返したらしく、洗濯したものが散乱していた。
どうやらフロリスとは、洗濯メイドのようだ。
「あんたにはまだまだお仕置きが必要なようだね! 後であたしの部屋に来るんだよ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい! 許してください!」
床に這いつくばって頭を下げるフロリスを庇う者は誰もいない。
アリエスもまたかかわることを避け、食堂へと向かった。
そしてご飯を食べていると、向かいにユッタが座る。
「アリエス様、今日はお早めに切り上げられたんですね」
「ええ。最近は陽が落ちるのも早くなったから。だけど私の世話はいつも通りの時間でいいわよ。それとも早く終わらせたほうがいいかしら?」
「私はどちらでもかまいません。アリエス様のお世話をさせていただくのはとても楽しいですから」
「あら、ありがとう」
部屋は相変わらず侍女用の部屋のままだが、ユッタが何かと世話を焼いてくれるので助かっていた。
伯爵令嬢としては苦労してきたアリエスだが、力仕事のような労働はほとんどしたことがない。
自分の境遇を嘆いていても、先ほどのフロリスのような立場の者たちからすれば、甘えるなと言われるだろう。
だからアリエスは感情を表に出すことはやめた。――正確には〝ふり〟をやめたのだ。
楽しんでいるふり、悲しんでいるふり、愛しているふりを。
アリエスがあまり無駄な会話をしないことを覚えたユッタは、それからは黙々と食事をとり、アリエスと同時に終わらせた。
それからアリエスのトレイも持って立ち上がる。
「ここは片づけておきますから、アリエス様は先にお部屋にお戻りください」
「――ありがとう」
素直に甘えて、アリエスは手ぶらで立ち上がった。
そのまま出口に向かっていると、今度は男の怒声が聞こえる。
「――気をつけろ!」
「す、すみません……」
振り返って見れば、ユッタが無精ひげを生やした男に謝っていた。
どうやらユッタが男性使用人にぶつかったらしい。
だが大したことはなさそうなので、アリエスは部屋へと戻っていった。
* * *
「もう、今日はついていないですよ~。さっき、食堂でヤコテさんにぶつかってしまったんです」
「……そう。ケガはなかった?」
「はい、大丈夫です」
寝支度の手伝いにやって来たユッタが悔しそうに嘆く。
大丈夫なのはわかっていたが、一応は訊いておくかとアリエスは問いかけた。
するとユッタは気遣ってもらったことが嬉しかったらしく、にっこり笑って頷く。
「それで、そのヤコテって人は有名なの?」
あの場でもずいぶん偉そうであり、皆が敬遠しているように見えた。
若い女の子相手だとやたらと威張る男もいるが、ヤコテについては相手がユッタだからというのは関係ない気がしたのだ。
大勢いる使用人の中でユッタが名前を知っているということは、それなりに有名なのだろう。
ただアリエスは知らなかったので気になった。
単純に野次馬根性である。
「ヤコテさんはドロタさんの元旦那なんですよ」
「元?」
「はい。ドロタさんがどんどん出世してメイド長にまでなったのに、ヤコテさんは仕事をサボってばかりでいつまで経ってもただの下働きのまま。それどころか賭博にのめり込んでドロタさんにお金の無心がすごかったらしく、ついにドロタさんはみんなの前で宣言したんですよ」
「ああ、なるほど」
庶民の間の結婚は皆の前で宣言して始まり、宣言して別れられる。
問題も多いがとても簡単なのだ。
それにしてもまた賭け事か、とアリエスはため息を吐いた。
本当に人間とは誘惑に弱い。
「だけどずいぶん偉そうだったわね。メイド長と別れた今はただの下働きでしょう?」
「それがまだきちんと別れていないみたいなんです。何だかんだでずるずる続いているらしいですよ」
「ああ、なるほど」
本当に人間とは誘惑に弱い。
ドロタはどうしようもない男であるヤコテにまだ未練があるということだろう。
「ヤコテさんも心得ているっていうか、ドロタさんはお酒が大好きらしいんです。それで賭博で勝ったときにはちょっといいお酒を持って、ドロタさんの部屋を訪ねるんだそうです」
「それは情けない話ね」
「ホントですよ」
ドロタのお酒好きはアリエスも知っていた。
何か仕事で失敗しても、お酒を持って謝罪に行けば、ドロタは許してくれるどころか、次からは厚遇してくれると噂で聞いた。
要するに賄賂である。
(あれだけ新人の子に厳しくしておいて、自分を律することもできないのね)
それでメイド長とは呆れる。
誰が使用人たちの人事を決めているのか知らないが、アリエスは会ったこともないその相手に頭の中で能なしの烙印を押した。
(まあ、私には今のところ関係ないからどうでもいいわ。それよりもお金よ。私の賃金よ)
どうも毎月渡される賃金が、ヘンリーから聞いていたより少ないのだ。
はじめの数か月は新人だからかなと思っていたが、半年経っても変わらない。
これは明日にでも女官長のところへ確認に行かなければと、アリエスは負けないための戦法を考えることにした。