12.気の毒
「よお、暇そうだな。それに暗いぞ」
「お暇なのはあなたではありませんか。それにこの部屋は暗くしておかないと本が傷みますから」
資料室に入ってきたジークに嫌みで返すと、アリエスは再び作業に戻った。
そのまま沈黙が続いたが、耐えきれなくなったようにジークが大きく息を吐き出す。
「息が詰まるな、この部屋」
「でしたら、どうぞ出ていってください。作業の邪魔です」
「恩人にその態度はひどいんじゃないか?」
「恩人?」
「女官長の説教が短くすんだのは誰のおかげだと思う?」
「さあ、知りません」
「俺がとある人にお願いして呼び出してもらったからだよ。そのときにアリエスが遅れた理由も説明しといた。だから今もアリエスはこうして資料室にいられるんだろう?」
「……それはありがとうございました」
あのとき、女官長はかなり怒っており、遅れた理由の弁明もさせてくれなかった。
むしろイヤオルが――近衛騎士が殺害されたことで王宮中が大騒ぎになっていたのに、そのことに関心さえ示さずアリエスへの説教をすることを使命としていることに、アリエスは感心さえした。
しかし、すぐに女官長補佐のロイヤが入ってきて耳打ちしたために、アリエスは解放されたのだ。
あれはジークの仕業だったのかと思いつつ、アリエスは小さなランタンを頼りに本の並べ替えを続けた。
「あのメイドはどんな調子だ?」
「ユッタ? あの子はようやく仕事に復帰したところよ。無理しているみたいだけれどね、気の毒に」
イヤオル殺害犯はやはりあの騎士だった。
アリエスが去ったあと、一応ユッタも拘束されたままだったが、詰所を捜索したところ、血痕のついたあの騎士の上着が発見されたのだ。
それで観念したのか、騎士は賭け事で作った借金をイヤオルに立て替えてもらっていたことを告白した。
要するに動機はその立て替えたお金の返済を迫られたせいらしい。
咄嗟にイヤオルが手に持っていた懐刀で刺してしまったと自供しているらしいが、それも怪しいとアリエスは思っていたものの口出しはしなかった。
そもそもあの場に現れなければ、アリエスはあの騎士についてわざわざ触れることはなかっただろう。
何かで読んだが、犯人は現場に戻ってくるとは本当らしい。
「やっぱりアリエスでも気の毒だって思うんだな」
「それはそうよ。生きて一緒にいればいつかは幻滅したでしょうに、一番美しい記憶を残したまま彼は死んでしまったんだもの。それも自分のために。ユッタは一生忘れられなくなってしまったでしょうね。気の毒だわ」
「俺が思った気の毒とは違うな」
「もちろん同情もしているわ。ただ彼も暴走しすぎたのよ。ユッタの立場も気持ちも考えず、自分のやりたいようにやろうとした結果、ユッタを一番傷つけることになったわ。自己満足の陶酔型ね」
「死んだ者をそこまで悪く言うか?」
「悪く言っているわけじゃないわ。事実よ」
アリエスが冷ややかに答えると、ジークは喉の奥で笑った。
これはあのときと同じ笑いだ。
「国王陛下は心がないと噂されているが、そのうちアリエスも心がないと言われるようになるんじゃないか?」
「別に私はそれでも支障がないからかまわないわ」
「陛下にはあるっていうのか?」
「実際、あったじゃない」
本の整理は諦めて、アリエスはため息を吐くとジークに向き直った。
ジークは何のことかわからないのか、片眉を上げて表情だけで問いかける。
「近衛騎士は貴族の子弟で構成されているわ。それは身分主義ではなく、陛下のお側でお仕えするのだから、身元のはっきりした者でなければならないからじゃないかしら? だから本来、イヤオル様が子爵家から勘当されたとしても、その立場は保証されたはずなのよ。だけど彼は近衛騎士を解任されると思っていた。それどころか王宮では働けなくなると思っていたからお金にこだわるようになったんでしょう?」
「それは確かにそうだな。だが、貴族のお坊ちゃんだったイヤオルが彼女と――ユッタと生活していくためにはお金が必要だとわかっていたことに俺は驚いたし、感心したよ」
「それはそうだけど、問題は陛下よ」
「国王陛下か? 下手なことを言うと不敬罪だぞ?」
「それが問題なのよ。陛下に諌言したとして、不敬罪に問われるなら誰も意見を言えなくなるわ。それに陛下には心がないと思われているから、イヤオル様は解任されると思っていた。そんなことはなさらないと陛下を信頼することができていればよかったのよ」
言いながら、アリエスはランタンをテーブルの上に移してカーテンを少しだけ開けた。
それからテーブルの上に置いていたポットから使っていないカップにお茶を注ぐ。
ジークは当然のようにそのカップを受け取り口に含んで顔をしかめた。
「冷たいぞ」
「ええ、朝一番に淹れたお茶だから。だけど茶葉は取り除いてもらっているから、渋くはないはずよ」
「それはそうだが、こんなものを客に出すなよ」
「お客様には出さないわ」
「じゃあ俺は何だよ?」
「仕事のお邪魔虫?」
「適度な休憩は仕事の効率を上げるんだぞ? 俺はアリエスが根を詰めすぎないよう気を配ってやってるんだよ」
「要するに、自分の休憩がてら暇つぶしに私の邪魔をしに来ているのね」
「素直じゃないな」
ジークがにやりと笑って呟いた言葉に、アリエスは肩を竦めただけだった。
実際、朝からずっと休憩なしで働いていたので、これがちょうどいい休憩になったのは事実である。
「今度の件で、アリエスはまたずいぶん有名になったな」
「女官のアリエス・クローヤルはね。だけどみんな表面しか見ていないから、私がこのメイド服姿で歩いていても気付きもしないわ」
「それについては考えさせられるよ。服装と髪型で驚くほど女性は印象が変わるな」
「男性もそうではなくて?」
その問いかけにジークは口の端だけで笑った。
そして文句を言ったはずのお茶を飲む。
「傲慢とか高飛車とか噂されるアリエスがあんなふうにユッタを庇ったのは、皆意外だったろうな」
「別に庇ったわけじゃないわ。事実を言ったまでよ」
「じゃあ、もしユッタが本当にやったのだったら庇わなかったってことか?」
「だから庇う庇わないの問題じゃないわ。事実がユッタを犯人だと裏付けていたのならそうなのでしょう。そんなことよりも、ここの騎士や衛兵たちは問題だと思うわ。事実を無視して憶測だけで犯人を決めつけていたもの」
「そうだな。あれは早急に改善しなければならないだろうな」
「ではこんなところでのんびりサボってはいられないわね。どうぞ頑張ってくださいませ」
アリエスは立ち上がるとカップを片付け始めた。
うっかりお昼は抜いてしまったが、次に喉が渇いたら食事に行けばいいだろう。
「やれやれ、では仕事に戻るか」
「ぜひそうしてください」
「そういえば、アリエスの笑顔を見たことがないな」
「おかしくもないのに笑えませんから」
立ち上がったジークを追い出すように、先にアリエスは扉にたどり着いた。
だが、ジークはのんびりと歩いてくる。
そしてアリエスの真横で立ち止まると、わずかに顔を近づけた。
「じゃあ、俺の目標はアリエスを笑わせることだな」
「そんなくだらない目標よりも、もっと壮大な目標を持ってください」
耳元で囁くように言うジークから、これ見よがしに離れて扉を開けた。
廊下には誰もおらず、アリエスはほっとしながらジークに出るようにと手で促す。
「そうでもないさ。皆を笑顔にさせるってのは大切なことだろう?」
「……そうですね」
アリエスの返事に満足したのか、ジークはようやく資料室から出ると手をひらひらさせながら去っていく。
その後ろ姿をアリエスはしばらく見送ったが、ジークが振り向くことはなかった。