88.計画
カスペル前侯爵夫人が亡くなり、その侍女が後追い自殺をしたらしいとの騒ぎもようやく落ち着いてきた頃。
今度は新たな噂で王宮内は騒がしくなった。
アリエス・クローヤル女史が病床の前夫に送った見舞いの品を、ハリストフ伯爵未亡人――ボレックの母親が怒りに任せて暖炉で燃やしたというものである。
その行動についてはアリエスも予想の範囲内だったので、特に驚くこともなくいつも通りに過ごしていた。
(それにしても、何が入っているかわかりもしないものを燃やすなんて、相変わらず愚かだわ……)
ラリーが用意してくれた薬に手紙を添えて送っただけだが、もし毒だったなら伯爵未亡人だけでなく屋敷の者たちまで被害は及んだだろう。
もちろんラリーから受け取ったときに本物だと確認はしていたので、燃やされても問題はない。
当然、異臭はしたらしく、伯爵未亡人は大騒ぎしたらしかった。
アリエスが王族専属棟から出て図書室に向かっていると、ひそひそと噂する声があちらこちらから聞こえてくる。
ハリストフ伯爵未亡人はアリエスからの手紙の内容を曲解して喧伝しており、それがこの国にまで伝わっているからだろう。
(お義母様は私が見込んだ通り、動いてくれるから助かるわ)
計画通りに事が運んでいるアリエスは向かいから女官長がやって来るのを目にして内心で喜んだ。
女官長補佐のマニエル夫人に女官長の行動予定として聞いていた通りである。
「まあ! あなたは分不相応にも名誉ある仕事に就いているというのに、こんなところで何をしているの? 王子殿下から離れるなんて!」
「私が何をしているかというのは、殿下にも関わることですので、いくら女官長でも気軽にお話することはできません」
「何ですって!?」
「ですから、私の行動を管理されたいのなら、陛下にその旨の許可をいただいてください。殿下の御身に関わることですから」
「なっ、なっ……!」
リクハルドも今はお昼寝中なだけだが、王子殿下の行動については安全上の理由から口にはできない――女官長は部外者である、と皆の前で告げたも同然だった。
いつも突っかかってくる女官長を、今日もわざと煽る。
女官長は怒りのあまり声を詰まらせたが、今回は息を吐きだして呼吸を整えると、したり顔に変わった。
「そういえば、クローヤル女史がお金に困っているとは知っていたけれど、それほどとはねえ……。それならお給金もきっちり確認していたのも頷けるわ。なんと卑しいのかしら」
「何のことでしょうか? お給金をきっちりいただくのは働くうえで当たり前のことですし、卑しいなどと言われる覚えはないのですが?」
「よく言うわ。あなた、離縁された元婚家にまでお金の無心をしたらしいじゃない。しかも、病と闘っている方相手に、遺産がほしいだなんて! 信じられないわ!」
「私こそ信じられません。どこでそのようなデマをお聞きになったのですか? まさか噂などと言いませんよね? 女官長ともあろう方が、噂を真に受けて真偽を確かめもせず、このように公衆の面前で大声で非難するなどと」
――と、非難したアリエスだったが、驚くほど想定通りに女官長が責めてくれるので、感動さえしていた。
手紙には実際、ボレックの回復を祈りつつも、後継者となる子どもがいないことを心配していると思わせる内容を書いていたのだ。
後継者がいなければ、爵位と領地財産はどうなるのか、元妻として管理を手伝っていたので、いつでもまた手伝える、等。
ボレック宛てのその手紙を先に読んだ伯爵未亡人が、アリエスがハリストフ伯爵家の財産を狙いすり寄ってきていると捉えたのも当然だった。
女官長も元義母も扱いやすくて本当に助かる。
「噂が嘘か本当かが問題じゃないのよ。王子殿下付きの女官にそのような卑しい噂が流れることが問題なの! このことは陛下に奏上いたしますからね!」
「ええ、どうぞ。私に疚しいことは何もありませんので、かまいません」
「なっ、何がかまわないですって!? 疚しいことだらけじゃないの! あなたがカスペル侯爵だけでなく、そのお母様の主治医だったマンベラス医師まで誑かして、よくものうのうとしていられるわね! カスペル前侯爵夫人が亡くなられたのも、きっとあなたのせいで心労が祟ったのよ!」
「それは……女官長の憶測ですか? それとも何か裏付けされたものがあるのですか? カスペル前侯爵夫人については、哀悼の意を表することしかできません。ですが、前侯爵夫人の死を、そのように私を貶めるために持ち出されることには不快感を覚えます」
アリエスはショックを受けたような、傷ついたような表情を浮かべつつも、言うべきことはしっかり言った。
さすがに女官長の言葉は行き過ぎており、周囲で様子を窺っていた者たちも引いている。
それどころか、アリエスの言葉に同調するように頷く者もいた。
「とにかく、私は酷い扱いを受けたとはいえ、元夫であるハリストフ伯爵が少しでも快方に向かえばと思い、薬をマンベラス医師にお願いして用意しただけなのです。それをこのように女官長にまで責められるなんて……」
「わ、私は……」
アリエスは大きく息を吐き出して、傷ついた心を落ち着かせ……ているように見せた。
女官長もさすがに言い過ぎてしまったと自覚があるようで、顔色が悪くなっている。
「ハリストフ伯爵はとても厳しい方でした。私は結婚式で初めて……三番目の妻だと知ったのです。確かに無一文で追い出されたとはいえ、先の奥様お二人より……命があっただけ幸運だと思っております。そして四番目の奥様は……どうにか逃げ出せたようですね。そのために……いえ、これも噂で聞いただけですから、私もこのような場で口にするべきではありませんでした」
アリエスの作戦も演技も秀逸だった。
今まで自分から過去の結婚生活について語ったことはなく、ここで初めて口にしたのだが、その内容は衝撃的なものだったのだ。
今の話からすると、ハリストフ伯爵の前妻二人――それも皆には初耳だが――は殺され、アリエスは無一文でも生きて故郷に帰れた。そして四番目のハリストフ伯爵夫人は、逃げ出したことになる。
もっと詳しく――という女官長を含んだ周囲の者たちの気持ちをかき立てるだけかき立て、アリエスは口を閉ざしたのだった。
「すみません……気分が悪くなりましたので、失礼します」
アリエスは片手で口を押さえ呼吸を止め、俯いて真っ赤になった顔を隠し、意識が遠のきそうになった瞬間に呼吸を再開して青くなった顔色を皆に見せた。
それから呼吸も荒いまま踵を返す。
その姿は皆の――女官長までもの同情を誘った。
自室に戻ったアリエスは、エルスに迎えられた。
リクハルドには、フロリスがついてくれている。
息の荒いアリエスを見れば、フロリスが心配することがわかっていたので、顔を合わせないように配置していたのだ。
「お帰りなさいませ、アリエス様。そのご様子だと、上手くいったようですね?」
「ええ、おそらくね。ありがとう、エルス」
結婚してからよく飲んでいた薬草茶を出してくれたエルスに、アリエスはお礼を言ってゆっくり飲んだ。
ハリストフにはよく首も絞められていたせいか、失神さえもコントロールできるようになってしまった。
アリエスが失神すれば、ハリストフの訳のわからない怒りは落ち着くようだったからだ。
「本当にいつもありがとう、エルス。あなたがいてくれたから今の私があるの。まあ、今の私はずいぶん捻くれてしまったけどね」
「私は今のアリエス様も活き活きなさっていて素敵で大好きです。今回の計画もとても面白いですし」
「あれを面白いと言ってくれるのは、きっとあなたともう一人の奥様くらいよ」
「そうでしょうか? ハリストフ伯爵領では順調に噂が広まっているようですから、真偽はともかくみんな面白がっているのだと思います」
「みんな、他人の醜聞は大好きだものね」
アリエスはエルスに、とある噂を故郷のハリストフ伯爵領で流してくれるように頼んでいたのだ。
方法はエルスと同じように文字が読み書きできる友人や元同僚に、『ある話を聞いたが本当なのか?』といった内容の手紙を送るだけ。
最近になって返事が届くようになり、その内容は多少の違いはあっても、『どうやら本当らしい』と肯定するものばかりだった。
これに今日の出来事――アリエスが濁したことを知りたがって、この国の者たちまで噂するようになれば、さらに話は広まる。
あとは待つだけだ。
もう少し面白くするために、アリエスは皆から今回のことをそれとなく探られても、傷ついたふりをして避けるようにしたのだった。