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1.はじまり

 

 アリエスにとって、口減らしという言葉は知ってたが、本当にあるとは思ってもいなかった。

 もちろん貧しい農村部では未だにあることは知っている。

 だが伯爵家に生まれていながら、そんなことを身をもって知るなんて思いもしていなかったのだ。


「アリエス、よかったわね! これからあなたはハリストフ伯爵夫人になるのよ!」

「お母様……」


 ボレック・ハリストフ伯爵の代理人は無言のまま、母がサインした書類をくるくると丸めて書簡箱の中に仕舞った。

 その様子をアリエスは見つめていたが、母の声に嫌々視線を隣へ向ける。

 母の顔は今まで見たことがないほどに輝いていた。


「それではクローヤル伯爵夫人、私はこれで失礼いたします。明朝にはお嬢様が発たれるよう馬車を迎えにやりますので、出発が遅れないようお願いいたします」

「もちろんです。私は見送りに出られませんが、ハリストフ伯爵にはくれぐれもよろしくお伝えください」

「かしこまりました」


 アリエスは化け物でも見るかのように自分の母親を改めて見た。

 たった今、クローヤル伯爵夫人は自分の娘を会ったこともない相手に売ったのだ。

 一応は花嫁として迎えられるが、どういった扱いを受けるかもわからないというのに。

 わざわざ国を跨いで花嫁を探しに来るなど、祖国では何か問題があることは明白だろう。


「――私は明日の朝にはきちんと発てるように準備しておきます。ですから、不躾ではございますが、お約束のお金は明日、必ずお渡しいただけますでしょうか?」

「……ご用意いたします」

「お願いいたします」


 伯爵の代理人は不快そうではあったが、素直に了承してくれた。

 ほっとアリエスは息を吐き出すと、見送りのために立ち上がる。

 玄関まで向かう間もずっと母はにこにこと微笑んでいたが、アリエスは笑わなかった。

 笑えるはずがない。


「――お母様、本当に私はポルドロフ王国に嫁がなければならないのですか?」


 代理人が馬車に乗って去っていったあと、アリエスは最後にもう一度だけと問いかけた。

 その質問に母はわけがわからないといった様子で答える。


「当たり前じゃない。持参金がなくていいどころか、支度金まで頂けるのよ? これであなたの弟は大学に進学できるし、妹たちには社交界にデビューさせられる。本当にありがたいわ」


 今年十九歳になるアリエスは社交界デビューをしていない。

 伯爵家にそんなお金はなく、アリエスはずっと弟妹の面倒を見て暮らしていたのだ。

 使用人は最低限。

 先代が賭博にのめり込んですっかり財産を減らしたクローヤル伯爵家は、アリエスの父の代になってもただ減らすだけで体面を保つことさえできていなかった。


 父は心労のせいか病に倒れて床に臥せ、母は嘆くだけ。

 アリエスはどうにか家族を支え、本来なら使用人がやるような仕事までも担っていたので、まだ十代だというのにやつれて見えた。

 そのせいか近所の紳士階級の男性たちには見向きもされず、いきなり話を持ち掛けてきたハリストフ伯爵の代理人という男性からも蔑んだように見られていたのだ。

 ハリストフ伯爵の代理人がなぜアリエスに縁談を持ってきたかなど母は疑うこともなく、二日もしないうちにこの話を受けていた。


 アリエスは為すすべもなく、父の代理として母が婚前契約書にサインするのを見ていることしかできなかった。

 本当に支度金が支払われるのか、そんなことも母は疑っていない。

 そのためアリエスが念を押すしかなかったのだ。


 アリエスの不幸はクローヤル伯爵家の長女として生まれたときから始まった。

 乳母はいたが二歳年下の弟が生まれてから代わりの乳母が雇われ、アリエスは弟の乳母の片手間で育てられることになった。

 五歳になる頃にはその乳母もいなくなり、アリエスが弟の世話をすることになったのだ。

 教育係はおらず読み書きは父親に教えられ、あとは屋敷にある本から自分で学ぶしかなかった。


 その頃の両親が――特に母が何をしていたのかはよく覚えていない。

 ただ両親の仲はそれなりによかったのだろう。

 その後も二人の妹と弟が一人生まれ、アリエスが乳母と一緒に面倒を見ることになったのだから。


 マナーについては本と母からの振る舞いで学んだ。

 だが十五歳になる頃には、この生活がおかしいと感じ始め、それでも社交界デビューはできるのだろうと信じて楽しみにしていた。

 そして気がつけばもう十九歳。


 あの代理人が訪ねてきたのは、アリエスが一番下の弟の服を繕っているときだった。

 結婚を諦めていたわけではない。

 だからポルドロフ王国の伯爵がアリエスを妻に望んでいると聞かされたときには浮かれた。

 いったいどこで見初められたのだろうと胸をときめかせ考えたが、思いつかない。

 そもそもなぜ本人が――代理人の話によると二十七歳の美丈夫らしい――が求婚に直接来てくれないのだろう、と考え出すと疑いばかりが浮かんできたのだ。

 それに拍車をかけたのが代理人の態度だった。

 代理人は初対面から明らかにアリエスを蔑んでいた。


「――お姉様! お客様は帰られたの!?」

「ええ」

「ああ、いいなあ。ポルドロフ王国の伯爵様と結婚できるなんて! それもすごくかっこいいんでしょ?」

「さあ、お会いしたことはないから」

「お母様がおっしゃっていたもの。お姉様は幸運だって!」


 アリエスに飛びつかんばかりに階段をかけ下りてきた妹二人は、姉の心境などおかまいなしでまくし立てる。

 母は疲れたからとさっさと自室に引き上げていく。

 その背を見つめてから、アリエスは目の前の妹たちに視線を向けた。


「……じゃあ、あなたが交代する?」

「まさか、無理よ! だって私はまだ十五歳だもの。結婚はできないわ」


 半ば本気のアリエスの言葉を冗談と捉えて、妹たちはくすくす笑う。

 妹たちがこの家の現状を全く把握しようとしないことがアリエスは残念でならなかった。

 育て方を間違えたのかもしれない。

 二歳年下の弟は寄宿学校に入っており、この縁談自体をまだ知らないはずだった。

 知ったからといって何かできるわけもなく、せいぜい心配してくれるだけだろう。


「お母様がおっしゃってたわ。伯爵様はとても気前がよくて、私が来年社交界デビューするための資金を援助してくださったんだって! きっとお姉様は贅沢ができるわね?」

「いいなあ。ねえ、お姉様。ポルドロフ王国に絶対遊びに呼んでくださるわよね?」

「……明日の朝早く出発するから、私は準備しないと。手伝ってくれる?」

「あ、私はこれからお勉強しないと」

「私も。まだ一昨日お姉様から出された問題が解けてないの!」


 妹たちのおしゃべりをやめさせるのは簡単だった。

 逃げるように階段を上っていく妹二人を見つめ、アリエスは深くため息を吐いたのだった。




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