第三話「追憶」
第三話「追憶」
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美しく天使のような微笑みの“悪魔”に打ちのめされていた俺のもとに、その“悪魔”が着替えを持ってきてくれた。俺の身体に服をあてがいながら、
「今日はこれに着替えなよ。それから下着も。下着はさっき買ってきた新品だけど、服は俺のだから君にはちょっと大きいかな〜、でも、うん、似合ってるよ」
ね?ほら?そう言って涼吾さんは、戸惑う俺の手に着替えを受け取らせた。
「でも俺、持ってきた荷物の中に服と下着ありますから大丈夫ですよ」
そう言って俺が着替えを渡し返すと、
「それは君が寝てる間に洗濯しといたんだけど、まだ乾いてないからさ。ついでに今着てるそれも洗濯するよ」
なんだか有り難さより申し訳なさが勝ってしまう。
「…俺なんかのために色々ありがとうございます」
「俺“なんか”って言わないの。俺たちは望んで君に来てもらったんだから。あ、着替える前にお風呂入ったら?昨夜そのまま寝ちゃったから体ベタベタでしょ?」
「え、いいんですか?」
(“お風呂入ったら?”ってことはこの店、シャワールームじゃなくてバスルームがあるのか…どんだけ広いの)
「もちろん。全部俺が、というか俺たちがしたくてしてることだから気にしないで」
そう言って涼吾さんはふわっと笑った。花のような笑み、という形容がとても似合う人だ。俺も前の店でお客さんに言われたことがあるけど、俺はこんな風に笑えているんだろうか。
バスルームまで案内してもらいながら、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「涼吾さん」
「ん?」
「なんで、あの店に行く時“涼子”になるんですか?」
「あ〜…やっぱり気になるよね。最初はね、のっぴきならない事情があって、そうせざるを得ない状況だったんだ。俺一時期追われててさ」
追われてた?誰に?なんで?聞きたいけど、怖くて聞けない。多分、聞いたところではぐらかされるだろう。
「普通の変装をしたところで、“奴ら”はすぐに勘付く。だったら思い切って女装してみたらいいんじゃないかって、これはうちのリーダーの提案」
「リーダー?」
「この店実は六人でやってて、俺と拓斗くん以外に四人のメンバーがいるんだ。リーダーって言う言い方が合ってるかどうかわからないけど、彼は俺たち六人を代表して事務処理の一切をやってくれてる人。今日は、まだ見てないけど」
「…へぇ」
「で、最初はそんな感じで始まったんだけど、“奴ら”が俺に対する興味を失ってからも、面白いから続けることにしたんだ。案外楽しいしね。でも、楽しいけど疲れるから月に一度だけね」
「…そうなんですね」
「あ、ここだよバスルーム。あとでタオルとかも置いとくから。さあ汗を流しておいで。脱いだものは、かごの中に入れてね」
(もう本当に何から何まで申し訳ない…)
浴室を出ると、脱衣場に着替えとピンク色のバスタオルがきちんと畳まれて置いてあった。
改めて涼吾さんの私服だというその着替えを見てみる。思わず「これレディースじゃないの⁇」と言いたくなるような、レースふりふりでひらひらの白いシャツに、ピタッとした黒い革のベルボトム。 確かに涼吾さんには似合いそうだけど、俺の好みでは全くない。
(これが私服…これを俺に着ろってか…)
せっかく借りておいてなんだがまるで自分が人形かマネキンになったようで、正直これを着るのは気が進まなかった。でもこれ以外に着るものはないので、とりあえず着替えてバスルームを出た。
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髪を拭きながら店のメインフロアに戻ると、見慣れない男が一人で居た。拓斗さんの顔をもっと可愛らしくしたような顔立ちの、くりくりとしたアーモンドアイが特徴の小柄な男だ。男は俺の姿を認めると椅子から立ち上がり、
「君が、城戸樹里くんだね。俺はこの店の経営責任者の、あおみひろえです」
とハスキーな声で言った。手渡されたのは、黒い紙に薄青のインクで『クラブCasablanca 青海広江』と印刷された名刺だ。どうでもいいが、なんとなく名前の響きがちあきなおみっぽいなと思った。
(そういえば拓斗さんと涼吾さんの苗字はまだ聞いてないや)
「Casablancaというのはこの店の名前。拓斗たちからどこまで聞いてるか分からないけど、俺は一応ここのリーダーってことになってる。城戸くんを引き抜こうと決めたのも俺だ」
くりくりのアーモンドアイで真っ直ぐ見つめられると、自然と背筋が伸びる心持ちがする。俺の方が少し背が高いのと、踵の高い靴を履いているので俺が青海さんを見下ろす形になるが、なんだか逆に俺が見下ろされているような、そんな気持ちにさせられる。上手くは言えないが。
「…あの、俺みたいな若造をこんな立派な店に呼んでいただいて光栄です」
精一杯言葉を絞り出すと、青海さんは俺の目を見、首を傾げて微笑みながら言った。
「そんな固くならなくていいよ。俺たちは別に怖い人たちじゃない。みんな見た目がちょっと派手だしこんなよく分からない職業だけど、ちゃんとした普通の人だ。…いきなり君を取り巻く状況が変わったから戸惑ってるだろうけど、ゆっくり慣れていけばいい。すぐに慣れろ、働け、って昨日来たばかりの新人くんに言ってもそうそう出来る訳じゃないからな」
俺の抱えていた不安を青海さんは全て見抜いていたようだ。ハスキーでどこか少年っぽさが残る声に包まれるように、俺の心は融けていった。
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青海さんが『STAFF ONLY 』の扉の向こうに消えたあと、ひとり残された俺は先程まで自分が寝ていたソファに腰掛けた。傍らには古ぼけた茶色い革の鞄と、ギターケースがある。昨夜自分が纏めた荷物だ。寝ている俺と一緒に運んでくれたのだろう。鞄のファスナーは開いていた。涼吾さんが俺の衣類を洗ってくれていると言っていたが、鞄の中身は衣類以外、何一つ無くなってはいなかった。念のため財布を確認したが、一円も減っていなかった。やはり此処の人たちは悪い人たちではない。俺はまだ手に持っていた名刺を再び見つめた。よく見ると、『Casablanca』の名前の通りカサブランカの花の形が紙に浮き彫りになっている。紙の素材も普通の名刺とは一味違う、かなり高級感のある厚紙だ。そしてなんといっても紙の色。普通なら白い紙を使いそうなものだが、この名刺は冬の夜空のような漆黒の紙を使っていた。
「…こんな細かいところにまでお金がかかってるんだな」
俺はほとんど息だけでぼそっと呟いた。この店は、何から何まで一流のもので揃えられ、お洒落で洗練されている。昨夜俺を迎えにきた車は黒塗りの高級車だったし、店の内装や家具類、照明等のインテリアは今までの人生で見たことがないほど明らかに高そうだ。だだっ広い真っ白なバスルームが建物内にあること自体も驚きだったが、映画でしか見たことのないような猫脚バスタブがあったのには更に驚いた。本当に目に映る何もかもに莫大な金額がかかっているように思えてならない。この空間にいる俺だけが、まるで不釣り合いに感じられた。
俺はテーブルに名刺を置くと、ケースからギターを取り出した。年季が入ったアコースティックギター。古ぼけて見えるが、良い音が鳴るしチューニングもしっかりできている。これは俺が唯一持っている父親の形見だ。父親は昔、歌手を目指して東京に出てきて、飲み屋街で流しをしていたらしい。結局歌手にはなれず、地元に戻って就職し、結婚した。やがて兄が生まれ、俺が生まれた。子守唄は父のギター伴奏で歌う母の歌声だった。妹が生まれた時は、そこに兄と俺の声も重なった。
『埴生の宿も わが宿
玉のよそい うらやまじ』
俺は昔「埴生の宿」が好きだった。隣の家に音が漏れないように控えめに弾く父親の伴奏も、優しく包み込むような母親の歌声も好きだった。しかし何より好きなのはこの曲のメロディだった。哀愁漂うメロディに子どもながら懐かしさを感じていた。よく両親に歌ってとせがみ、俺も一緒に歌っていた。当時は歌詞の意味なんて分からなかったが、今思えば、両親はどこか無理してこの曲を歌ってくれていたのではないかと思うのだ。小学生になって音楽の教科書に「埴生の宿」が出てきた時、歌詞の意味を先生が教えてくれた。
「埴生というのは、粘土のことです。といっても、みんなが粘土遊びに使うあの粘土のことではありません。粘り気のある土のことを言います。ですから、『埴生の宿』というのは、土でできたみすぼらしい家、という意味なんですね。一番の『玉のよそい』やニ番の『瑠璃の床』は、宝石や玉が散りばめられたような豪華なお家のことを表しています。『うらやまじ』は『羨ましくない』という意味なので、煌びやかで豪華な家なんて羨ましないよ、という思いが込められているのだそうですよ」
それを聞いたとき、俺は少なからずショックを受けた。俺の家は当時かなり貧しかったから、俺たち家族は古くて狭い安アパートに住んでいたが、その時まさしく自分の家こそが「埴生の宿」だと感じた。みすぼらしい家に住んでいる俺たちが「埴生の宿」を歌うなんて、なんて哀れで可笑しいんだろうと思った。豪華な家が羨ましいに決まってる。そんなところに住みたいに決まってる。それなのに『豪邸なぞ羨ましくない』という意味のフレーズの箇所を好んで両親に歌うことをせがんでいたなんて、俺は自分が許せなかったのだ。両親の心中を思うと、とてつもなく申し訳なく、悲しくなった。
その日から俺は両親に「埴生の宿」をリクエストすることをやめた。学校で習ったことは言わなかった。
「どうしたん、あれ歌わんでええの?あんたあれ好きやろ?」
「…あれは、もう、飽きたわ。別のがええな。なぁ父さん、『黒い花びら』歌ってや、僕、父さんの歌う『黒い花びら』が大好きやから」
「よし、任しとき。しかしお前も渋いな」
父はそう言って笑い、静かに弾き語り始めた。まだ赤ん坊だった妹を腕の中に抱きながら、母はリズムに合わせて身体を揺らした。両親の表情はにこやかだった。俺と兄は寄り添いながら父の歌を聴いていた。不意に、兄が俺の顔をじっと見つめてきた。俺も見つめ返した。兄は黙って微笑みながら、俺の頭を撫でた。大好きな兄にそんなことをされてとびきり嬉しくなって、俺は満面の笑みで返した。
今思えば、あの時兄は俺の気持ちを全て分かってくれていたのではないかと思う。兄だって学校で「埴生の宿」を習ったはずだが、毎晩のように「埴生の宿」をせがむ俺を見ても何も言わなかった。俺が歌詞の意味を理解したあの日も、ただ黙って頭を撫でただけだった。それでも俺は幼い頭なりに、人生においては遠慮と忖度(悪い意味ではなく)が必要だということを理解した。
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第三話・終
第四話へ続く