3 まずは手の届く範囲から
朝、喧しい小鳥達のさえずりのお陰で起こされた私は寝惚け眼を擦りながらベッドから降りる。
「夢……じゃなかったみたい」
ポツリと呟きながら自身の身体を見ても何も変わっていない、少女のまま。部屋を見回しても何一つ風景は変わっておらず、まだ日が昇り切っていないのか少し薄暗いくらい。一つ違うとすれば、部屋の外から漂う美味しそうな香りが私の鼻とお腹をくすぐるくらい。
──クウゥ……
「よくよく考えたら私、あの日もろくに食べて無かったんだっけ……」
滑落したあの日も、所謂メイト的パサパサビスケット片手に山を歩いていたんだけど、そりゃお腹もすくし知らず知らずに体力も減ってうっかり滑り落ちるってもんよね。……馬鹿な事してたわ本当。
と、あの日を想起しても仕方ない。いくらお腹を撫でたって空腹感が満たされるでも無いし、ここはいっちょ──
「──外に出るとしますか」
昨日は父の邪魔が入った訳だけど、今度こそ……! ドキドキと早くなる鼓動を手で押さえながら意を決してドアノブを回す。
「ここは……」
特に期待していた訳でも無かったけど、まぁ普通のリビング的な部屋かな? 結構大きめだけど。あっちの隅には私のそれよりも大きなベッド、多分両親用? それと目の前には木製のテーブルと椅子が四脚。で、適当な場所に収納家具やらと、少し奥の方にはこの匂いを作っているキッチン、というより釜戸が。……釜戸なんて田舎のお婆ちゃん家でも見た事ないよ。
何となくコソコソと釜戸の方へ近付いてみると、そこには女性が。バンダナか何かで首の辺りで髪を一まとめにしていて、茶色を少し明るくした感じの色。正直女性にしてはがたいがかなり良いこの女性は……ふむ、残っている記憶から察するにこの子の母親レベッカか。
そんな観察をしていた時、何か感じたのか唐突に母がくるりと振り向き私とバッチリ目が合ってしまった。私もそうだけど多分母もまさか後ろで見られているとは思っていなかったのだろう、二人揃ってビクッと肩を竦める。
「うわっ!? 何だエルマか、ちょっと驚かせないでよ……」
「え、あ、その、ごめんなさいお母さん」
「いや、怒ってないからそんなに畏まらなくても良いよ。それよりも頭、大丈夫? 随分と血が流れていたようだけど……」
「うん、まだ痛むけど平気。とりあえず歩けるよ」
「なら良いけど……あんまり母さんを心配させないでよ?」
「うん……ごめんなさい。それと、ありがとう」
なんて言えば良いか分からないけど、こう、心がほわっとする。きっと私にとってとっても良いお母さんなんだなって、何となく分かる。……だからこそ、チクリと心が痛むのかな。……お父さん、お母さん。
「エルマ、何だかぼんやりしているけど本当に大丈夫?」
母はしゃがんで私と同じ目線になりながら、心配そうに額に手を当ててくれた。……温かくて落ち着く、母の手だ。私も小さい頃してもらったっけ。
「うん、本当に大丈夫だよ。ありがとう」
「そう……っと、そういえばエルマ昨日からトイレに行ってないでしょ? 今ギリアムが居る筈だから行っといで。……一応あたしも付いて行こうか?」
「大丈夫だよ。流石にトイレ位一人で出来るって」
「そうかい? じゃあエルマが戻ってきたら朝食にするからね」
「は~い」
とは言ったものの、さっき部屋を見回した時それっぽい扉なんて無かったけどなぁ。あれはどう見ても玄関だし……って薄く残っている記憶によれば外にあるんだ……仕方ない、どっちにしても行くしかないよね。
早速玄関に向かい靴は……多分サイズ的にもこの革靴かな? 結構痛んでる辺り随分履き潰しているみたい。ともかく、いざ初めての──
「──外へ……!」
ギイィと油の足りない音を出す扉は意外と重たかったが、私は喜び勇んで外へと駆け出した。ふむ、近くに家もあるみたいだけど村というよりは、山の中にある小さな集落みたいな印象。で、そこら中に畑がある辺り、農耕が主、と。成る程成る程、でトイレはっと……もしかしてあれ?
家から出てすぐ近くに掘っ立て小屋みたいな物があるけど、まぁ行ってみれば分かるでしょ。ジャリジャリと乱雑に敷かれた砂利の上を歩いていくと何やら『……よ、来たれ』と変な声が小屋の方から聞こえて来た。多分父の声だと思うんだけど、何? 便秘で変なおまじないでもしてたの? まぁ良いや、後で聞いてみれば。
「お父さ~ん、居る~?」
扉をノックしながら問いかけてみると、丁度良く終わったのかそのままガチャリと扉が開いた。……しっかし母もそうだったけど、父も随分大きいなぁ。私の倍以上身長差があるし腕も足も丸太みたいに太い。結構毛深いけど。かなり黒の強い茶髪と髭もボサボサだし。
「おぉエルマ、起きてたのか。言ってくれれば連れて来てやったのに」
「流石にトイレ位一人で大丈夫だって」
「それなら良いが、まぁごゆっくり」
「はいはい、さっさと出てって」
私の常識ではトイレは男女別だけど、どうやらここでは兼用が普通みたい。気にはなるけど、まぁ仕方ない……ってこのトイレ……えぇ!?
もほやそれは私の常識の遥か外にあるような代物だった。床は一応板張りしてあるけどその中央、蓋のような物を剝ぐってみるとそこには深めのバケツ位の穴が掘ってあるだけ。
「……何か、大昔の人になった気分。……ムフフ」
普通の女子ならば悲鳴でも上げるのが尤もらしい行動だろうが、訓練された私は違う。これもまた貴重な経験、有り難く頂戴しておこう。ただ、一つ疑問なんだけど父がどほんの少し前まで用を足していた筈なのに形跡がまるでない。いや若干かぐわしい香りが残っているから確実にしている筈なんどけど……良く分からないし、取り敢えず私もしておこう。
それから数分後、何だかんだすっきりした私だがどうやら紙で拭く習慣はないらしく、その代わりに置いてあるのは様々な木の葉。う~んこの郷に入っている感覚、良いねぇ。
その後、玄関の脇に置いてある水の入った瓶で手を洗い、再び家の中へと戻ると既に朝食の支度が済んでおり、テーブルの上には野菜を主とした炒め物やスープが並んでいる。
「あぁ戻って来たね。じゃあ温かいうちに早く食べようか」
「うん、いただきま~す」
父と母は向かい合いながら、なら私は何となく父の脇に座ってスプーンを手に取りスープを一口。う~ん結構塩味が強めだけど、多分力仕事がメインだからかな? 外にも一杯畑があったし、しょっぱい方が身体に合ってるのかも。お次はこのパンを……う~ん、固いし凄くお腹に溜まる感じ。そういえば昔のパンは日持ちするように固く締まっていたとか何とかって見た事あるかも。
「ところでギリアム、今日も遺跡に行くんでしょ? 弁当忘れないでよ」
「おう、毎日悪いな」
「それがメインの稼ぎなんだから当然でしょ。それよりも……まさか今日はエルマを連れて行くだなんて言わないでしょうね」
「いや……流石に今日は休ませとくさ。昨日の今日だしな」
母に睨まれた父はさながら蛇に睨まれた蛙のよう。成る程、そういう力関係なのね。……じゃなくて! 遺跡!? あるの!?
「ねぇお父さん、遺跡なんてあるの!?」
「んなっ!? お前、覚えてないのか!? 昨日だってお前……いや、あの時大分頭を強く打ったみたいだからな……記憶が曖昧になっているのか?」
はて、昨日この子に一体何があったのだろう。察するに遺跡で何かしらあって頭を強く打ったみたいなんだけど……その辺り記憶が曖昧で探りたくても探れないんだよね。まぁここは流れに乗っておこう。
「う、うん……昨日の事も良く覚えて無いから……だからその遺跡に行って色々思い出したいなって!」
「お、おう……話は分かったけど少し離れてくれ」
おっといけない、つい興奮して詰め寄ってしまった。ここは冷静にならないと。
「エルマの話は分かったけど……どうする? レベッカ」
「正直な所を言えばあたしは大反対。ただでさえこうして記憶が変になってるってのに次は……って考えると背筋が凍る思いだよ」
母の言葉に父は勿論私もぐうの音が出なかった。確かに親からすれば子供を危険になんて晒したくないに決まっている。……本当にお父さんとお母さんに申し訳ない事しちゃったなぁ。後悔先に立たずって本当だね。
「……でも」
……ん、でも?
「本当はエルマも行きたいんだろう?」
「うん。……でも良いの?」
「だってあからさまにしょぼくれた顔しちゃってるし、放っておいたら一人で抜け出しそうだからね。それならいっそギリアムに付いてた方がマシさね。……という訳でギリアム、今度もしエルマを危険な目に合わせたらどうなるか、分かるね?」
そう言いながら父に凄んだ矢先、母が握っていた木のスプーンはベキリと音を立ててへし折れてしまった。これには強面の父も「お……おぅ当然だ。何があってもエルマに傷一つ付けさせねぇさ」とさぁっと血の気が引いた顔色をさせながらコクコク頷いている。……私も今度ばかりは無茶はしないでおこう。死んだ後にもう一回殺されそう。