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ハーベストブレンダー

【ハーベストブレンダー】小話その②

作者: 風月 或

 暖房の効いた図書館の椅子に座り、野々宮葵ののみやあおいは頭を抱えていた。

 ことの発端は、数時間前の他愛ない会話に遡る。

 新しい年を迎えたと思ったのも束の間、外に出れば身を切るような寒さと雪道の歩きにくさに辟易し、建物に入れば十分すぎる暖房の暖かさで眠気と格闘する日々を送っているうち、豆をまくイベントが終わって街中ではチョコレートをよく見かけるようになった。

 チョコレートに限らず甘いもの全般を愛する葵はこのシーズン、可愛らしいパッケージのチョコレートに心躍らせよく買って食べるのだが、そもそもそれは自分で食べる用途に使われることは本来なら少ない。

「アオイちゃんは、バレンタインデー誰かにあげないの?」

 尋ねられて、葵は思わずきょとんと同級生の顔を見つめ返してしまった。今まで自分がチョコレートを食べるだけのイベントだっただけに、急に尋ねられても返答に困る。

 もちろん、そのイベントがどんなものかは葵も知識としては知っていた。日本では女性が男性にチョコレートを送り、日頃の愛や感謝を伝える日だったはずだ。ただ、知識が経験につながらない。

 チョコレートをあげたい相手、と考えて、甘そうなミルクティー色の髪と柔らかな笑顔が脳裏に浮かんだ。いつも魔法のように美味しいお茶を淹れ、頬がとろけるようなお菓子を作り出す彼は、葵の雇い主であり高校の先輩でもある。試作と称してはよくケーキを食べさせてくれる店長に、日頃のお礼をするのはいい考えだ。

 そう思い立ち、葵は店長に連絡を入れ、放課後図書館に寄ってから職場に行くことにした。料理のコーナーで適当に数冊レシピ本を選び、数ページめくってみる。めくってみて、絶望した。

「お菓子ってどう作るのー!?」

 元々食べる専門で普段からマイフォークを持ち歩く葵にとって、お菓子は作るものではなく食べるものだ。店長が作っている様を時折覗きはするものの、まじまじと見ていたことはあまりない。初めて手にとったレシピ本はどんなに刮目しても文章が頭をすり抜けていってしまう。美味しそうな写真にばかり目が行き、三時のおやつを欲してお腹が鳴りそうだ。

 でも、あげるならどうしても手作りにこだわりたかった。店長は学業の合間を縫って喫茶店を営んでいるが、買い付ける紅茶の茶葉も庭のハーブを乾燥させたハーブティーも、日替わりで焼かれるいくつかのケーキやサブレ、スコーンなどの焼き菓子も決して手を抜かない。なんならまかないで作ってくれるパスタやサンドイッチなどの軽食も美味しい。普段の生活でもほとんどの食事を自身でまかなうため、誰かが作ったものを食べる機会が少ないように見えた。だからせめてこういうイベントごとの時ぐらい、日頃の感謝を手作りに込めたい。

 葵が慣れない活字と戦って頭から湯気を出していると、控えめな声で名前を呼ばれた。

「アオイちゃん? 珍しいね。今日はお店行かないの?」

 聞きなれた声に顔を上げて振り向けば、すぐ後ろで友人の舞扇まいせんなるみが微笑みながら軽く手を振った。舞い降りた救世主に目頭がじわりと熱くなる。

「ナルミちゃーん!」

 上擦ってしまった声に周りの視線が集まって、すがりつかれたなるみが「しーっ!」と人差し指を立てて恥ずかしそうに顔を赤らめた。周囲を見回し葵をなだめながら、持っていた文庫本をテーブルに置いて隣に座ってくれる。

「なしたの……ってあぁ、ごめん、ちょっと察した」

 問いかけの途中でちらりと葵が読んでいたレシピ本に目をやり、くすりと笑う。少しキツ目のまゆが下がって、快活な印象が柔らかくなった。その様子に葵もようやく少し落ち着いて、ぽつりぽつりと顛末を語る。適度に相槌を打ちながら相談を聞いてくれていたなるみは、なーんだ、とあっさり口を開いた。

「じゃあ、一緒に作る?」

「えっナルミちゃん、チョコレート作れるの!?」

「普段から作るわけじゃないけど、レシピ見れば。溶かして固めればいいんでしょ?」

 ざっくりと言ってのけながらパラパラとレシピをめくり、「これなんかいいんじゃない?」と指をさす。

 なるみが開いたのは、極めてシンプルなトリュフチョコレートのページだった。刻んだ板チョコに生クリームを加えてガナッシュを作り、丸めて粉を振るうだけの簡単なものだ。確かにこれなら普段作り慣れておらずあまり手先が器用ではない葵にも作れそうだ。

「私も作るし、よかったら土日にかわいいパッケージ買いに行く?」

 さりげない気遣いがとても嬉しい。葵は感極まって、抱きつきながら言った礼の大きさに再びまゆをひそめられてしまった。



 休日を迎え、なるみとパッケージを選んで材料を買い、キッチンを借りてチョコレート作りに挑戦した。刻んだチョコレートのボウルに沸騰直前の生クリームを注ぎ、慣れない手つきで混ぜ合わせる。ある程度冷えてもったりしてきたら、小さなスプーンにすくって並べて冷蔵庫で冷やし、その間は淹れてもらったココアを飲みながらしばし談笑した。固まったチョコレートに再び湯煎でとかしたチョコレートをコーティングし、手のひらで丸めてからココアパウダーを振れば完成だ。多少形がいびつなのは、目をつぶってもらいたい。

 爽やかなイエローの紙カップにチョコを入れ、店長の好きそうな若草色の箱に詰めた。結んだリボンは中の紙カップに合わせたレモンイエローだ。気に入ってもらえるだろうか、と微かな不安が首をもたげ、鼓動が早まるのを感じる。店のドアの前で深呼吸をして、普段の調子を装いつつ元気よくドアを開けた。

「おっはよーございまーす!」

「おはよう、アオイさん。今日もよろしくね」

 カウンターの奥でお湯を沸かしていた店長、葉澄誠司はすみせいじが人の好い笑顔で葵に声をかけた。少し長いミルクティー色の髪は左耳の下で束ねられ、体の前方に流している。新緑を思わせるグリーンの瞳は穏やかな光をたたえていた。服装はいつもの通り、清潔な白いワイシャツの袖をまくり、黒いスラックスに同色のサロンを巻いている。葵は店の隠し戸棚にコートや荷物を置いて、紙袋を手におずおずと誠司に切り出した。

「あの、店長……」

 呼びかければ、誠司は嫌な顔一つせず、小首をかしげて葵の言葉を待ってくれる。胸にくすぶっていた不安が紅茶に入れた角砂糖のように溶けて、自然と顔がほころんだ。

 大丈夫。店長はきっと、喜んでくれる。

「ハッピーバレンタイン、です」

 差し出しされた紙袋と葵の言葉に、誠司は目を丸くしたが、言葉の意味がじわじわと染み込んだらしい。徐々に顔を赤らめたと思うと、口元を手で覆って視線を逸らした。

「ごめん、まさか、もらえると思ってなくて……」

 誠司はこほん、と咳払いをして取り繕ってから、満面の笑みを浮かべた。

「ありがとう。とても嬉しいよ」

 その顔が本当に嬉しそうだったので、葵もほっとして頬がゆるんだ。喜んでもらえてよかった。

 葵が無事に渡せた達成感からほくほくしていると、誠司が「実はね、」と言葉を続けた。

「僕も、ささやかだけど用意したんだ」

 きょとんとする葵に少し待つように言い置いて、誠司は一度店の奥へと姿を消した。葵の認識違いでなければ、贈り物をするのは女性ではなかっただろうか。戻ってきた誠司は手にしていたケーキ箱を葵に差し出した。

「はい、これよかったら。イギリスでは、女性だけじゃなくて男性も贈り物をするんだ。小さな頃は、家族で交換していたっけ」

 懐かしいなぁ、と誠司は笑うが、両親はせわしなく海外を飛び回り、親代わりに育ててくれた祖母は四年前に亡くなったと聞く。共に暮らすレイトはこういった行事に関心がないだろうことは普段の態度から容易に想像がついた。もしかしたら、誠司にとってもバレンタインは久しぶりの行事だったのかもしれない。

 葵にとって、バレンタインは今まで自身の甘味欲を満たすためのイベントだった。

 でも、こうして喜んでもらえるなら、頑張って作ってよかったと素直に思える。

「ありがとうございます、店長」

「お店開ける前にお茶にしようか。せっかくだからいただくよ」

「わーい、ありがとうございます! あたしもてんちょーのケーキ楽しみです!」

 丁寧に入れられた紅茶は温かく、ほのかに甘い香りがした。渋みが苦手な葵のために、チョコレートに合いつつも渋みや癖の弱いアッサムを入れてくれたのだと気づく。そういった誠司の、客だけでなく一緒に働く者への心配りも忘れないところを、葵は素直に尊敬した。

 もうじきレイトも買い出しから戻るだろう。カカオを楽しみながら共にお茶を飲んだら、また仕事を頑張るのだ。

 葵は心の中でひとり拳を握って自身を鼓舞してから、温かい紅茶に口をつけた。



 ちなみに、誠司は葵の手作りトリュフチョコレートを可愛らしいと褒め美味しいと言ってくれたが、誠司の手作りザッハトルテには遠く及ばないと食べながら痛感したことをここに追記しておく。

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