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始まりの慟哭

その時であった。

ケンジは確かにその瞬間をスローモーションの世界で見た!

タカシの右拳が鮮やかにカツヤの頬にめり込むその瞬間を。

どうしようも無い落ちこぼれが、エリートに一矢報いた、その瞬間を!


奇跡とは勝手に起きるものではない。

あくまで人間の静かな努力の末に紡がれる物、なのである。



ここ、私立金毛銅幼稚園二年さくら組では密かな抗争が勃発していた。

日野ケンジを筆頭とする武闘派集団と岡崎ヨシキを筆頭とする頭脳派集団による抗争である。彼らは常にぶつかり合い、一方が積み木遊びをしていればすぐさま崩しにかかり、また対する一方も報復としてお弁当のクリームコロッケを盗み食いをするなどまさしく血で血を洗うと言うにふさわしい、仁義無き争いが繰り広げられていたのである。それは幼稚園全体を覆う争いであり、楽しく、明るいはずの学舎を陰鬱な空気に閉じ込めるものであった。


何故そのような事態に陥ってしまったのか。それは有る一つの悲劇に由来する。

その名も6.12・ツヨシ大号泣事件。

天を突く慟哭と共に、悪夢の始まりを告げる事件であった。


その日は一年生と二年生が合同で遊ぶ日となっており、彼らはおゆうぎ室で好き勝手に遊んでいた。よく晴れた日であり、暖かく、みなが楽しい時間が流れていており、担当であるひなこ先生も少し眠気を覚えながらも微笑ましく園児達を見守っていた。だが二年さくら組の園児は一年生の面倒を見るように言われている中、全員がどうしても嫌がる存在がいた。


ツヨシである。


彼はウルトラマンの大怪獣に因みベリアルツヨシとあだ名されるほどの暴君であり、気に食わないことがあれば直ぐに駄々をこね、泣いて暴れるなど大騒ぎする存在であった。彼の近くにたまたま居ただけで何か悪戯したのではないかと官憲、もとい先生に疑われ、お説教を受けるという理不尽な仕打ちを受ける園児が大勢居た。ツヨシの暴れぶりは余りにも凄まじく、先生達がまともに事情を聞くことも出来ぬほどであった為、疑われた園児は弁解の余地無く半ば流れ作業で怒られる他無かった。その理不尽極まりない仕打ちに悔し涙を流した園児は数知れぬという。その為、彼と遊んでやるような同級の園児も居なくなり、ベリアルツヨシはその寂しさゆえか、より爆発しやすくなるという悪循環が発生していた。


さて、6月12日のこと、前述の事情により爆発率は急上昇しており、もはや彼はカイザーの名を冠するに足る存在と化していると信奉者より報告を受けていたヨシキは一計を案じていた。自分より背が高く、運動神経の良いもう一人のボス格たるケンジ…その彼の地位を貶める邪悪な謀である。ヨシキはクラスでも頭がよく、二年生にして早くも三の段の九九を終えようとしており、皆から一目置かれていた。しかし反面プライドが高く、威張り屋で、その鼻持ちならない様子から、彼の信奉者を除いた皆から嫌われていたことは言うまでもない。そのヨシキからすると自分より頭が悪い癖に、少し足が速く(実際には園内随一)、少し顔が良い(女の子から一番人気)程度で皆から親しまれているケンジは気に喰わず、一方的な憎しみを抱くようになったのである。


彼の悪略は実に巧妙なものであった。


お遊戯時間も半ばを過ぎた頃、彼はまず自身の信奉者である一年生に近づき、あるミッションを命じた。それは事前に用意しておいた秘密の積み木を持たせ、ツヨシと遊び、城を一緒に組み立てた後にひそやかに離脱するという内容であった。一年生は尊敬するヨシキから直々に御願いをされたことが嬉しくてたまらず、即座に実行に移した。カイザーベリアルツヨシへ進化済みの彼が暴発しないように共に遊ぶことは、実のところ、非常に繊細な接待術を求められる難易度の高いミッションではあったが、その日の快い空気も手伝って計画は離脱フェイズまで何らの問題なく進むことが出来た。


それを確認したヨシキは一息つきながらも、計画を次のフェイズへと進める。ある事を同級の信奉者に命じ、自らはボールを持ち、ケンジをキャッチボールに誘うことである。普段、彼につれなく接していたヨシキは内心断られるのではないかと不安ではあったが、予想に反してケンジは誘いに快諾する。誰が相手であれ、せっかく誘われたのなら断らないという、まことに気風の良い男であった。常人ならこれから嵌めようとする相手にニコニコされたなら良心が咎めるところであろうが、ヨシキはまたそのような立派な態度を取られたことが尚更気に喰わなかった。齢四歳にして根性の捻じ曲がり具合だけは真に一級品であると言えよう。


さて、いよいよ計画は最終段階に入った。ヨシキはそれとなく自身とケンジの延長線上にツヨシが入るように移動し、あらかじめ命じていた信奉者へ目配せを行った後、えいやっと力と憎しみと、計画の成功への祈りを込めてボールを放り投げた。

ボールはケンジの頭上を跳び越すように放物線を描き、後ろに居たツヨシの近くへと着弾した。外れではない。狙いはドンぴしゃりであった。ケンジは苦笑しながら振り返り、ツヨシの下へと歩みを進める。彼の背中を見つめながら、計画の順調な進み具合にヨシキは自然と口元がほころぶのを実感していた。ケンジがツヨシの傍へ歩みを進めたその瞬間、積み木の城の土台を支えていたパーツがグッと動き、増築中だったツヨシの眼前で盛大にそれは崩れていった。土台の一部のパーツにはヨシキが家から持ち出した裁縫糸が結び付けられており、信奉者は少し離れた場所からその糸先を引っ張ったのである!


がら、がらと音を立てて崩れゆくは積み木の楼閣…!


時間をかけ、丁寧に、己の背丈ほどの高さまで築き上げた城はツヨシの誇りの象徴でもあった。一人で築き上げたわけではない。しかし、だからこそ、久方ぶりに友人と築けたという思い入れも籠った城である。それが突然、何の理由も無く崩れ去ってしまった。心の臓腑を凍らされたような衝撃が彼を襲った。彼にとってそれはまさしく未曾有の絶望であり、それによって引き起こされた金毛堂幼稚園史上に残る慟哭は部屋全体はおろか、隣教室、いや学舎全体を震わすほどの物だったと言う。


春の陽気に眠りかけていた担当者ことひなこ先生は即座に覚醒し、現場へと駆けつけ、騒ぎの根本たるツヨシの傍に居たケンジを捕縛、事情聴取を行った。だが…恐るべきことにはそこにも悪魔の罠が仕込まれていたのである。園内教室における裁判は密室ではない。公開裁判であり、傍聴者の声が全てでもあった。当然ケンジは身の潔白を訴えたものの、ヨシキ信奉者達のケンジが足を引っ掛けて積み木を崩したという多数の偽証の前には、その訴えは届かなかったのである。ケンジは一体自分の身に何が起きたのか分からず、半ば呆然としつつもそれでも必死に己の無実を訴えたが、多数のヨシキシンパによる偽証の前にもはやそれは、意味を成さなかった。


中世の魔女裁判が如き私刑が、

この法治国家にて行われたことは真に…悲しむべきことである。


戸惑い…呆れ…雑多な感情が込められた視線が、方々から彼の身に突き刺さっていた。

彼はいまやクラス全員に対する晒し者であった。

それは強烈なる辱めであった。

自身の身が潔白であることは分かりきっているだけにいっそう堪えるものであった。

このような思いをするのは彼の生涯(4年)の中でも始めての経験であった。

パニックで顔は赤くなり、それを見られまいと俯く他無く、さりとてそれでは涙が零れそうになるからそれも堪えねばならぬ。ああ自分が何をしたというのか。これは決して罪への罰ではない。只の暴力であり、リンチに過ぎない。まだ学習はしていない故に言葉はわからない。しかし彼はそのような思考の堂々巡りを説教の間に悶々と行っていた。


生まれて初めての理不尽による膨大なるストレス…それが彼の中に如何なる影響を及ぼしたかは詳しく後述することにしよう。


さてその時、クラスメイト達による数多の視線の中に、一際侮蔑と嘲笑に満ちた邪悪なる一筋のそれが混じっていることに彼は本能で気付き、ある種無意識にそちらを向いた。するとそこには…己の姦計の巧みさに…喜びを堪え切れなかったのであろうヨシキの…実に邪なる笑みがあったのである。


歯を見せることは無い。閉じきっているから。だがその口元は薄く、横にだらしなく広がり、二つの口角は人を馬鹿にするように釣り上がっている。目は弛みきり、何かの満足感に浸りきっただらしなさを示している。そこに何故このようなことが起きたのかという戸惑いは無く、全てを把握した、いや絵を描いた人間特有の嫌らしく、汚穢に満ちた下種の微笑がそこにあった。


余談ではあるが…その後彼の身に訪れる不幸を思えばここは決して笑うべきところではなかったのであるが、ここが所詮幼稚園児の限界であったのであろう。


ケンジは全てを悟った。偽りの証言者達が最も慕っていたのは誰だったのか。

そもそもツヨシの近くにボールを投げた人物は誰だったのか。

それを踏まえれば答えは明らかであった。


何らかの手段により、自分はヨシキに嵌められたのだ。


事実を理解した瞬間、これまた生まれて初めて噴出するマグマのような怒りが彼を貫いた。猛烈なる力が全身に漲り、跳躍せよ、撲滅せよ、正義は我にあり、剛毅果断に容赦無く全身全霊をもって彼の悪逆なる者をを打ち倒すべしと彼に命じ、全ての意識がヨシキへと固定される。そのエネルギーの命ずるままに彼はヨシキへと飛びかかった。金毛堂幼稚園史上最高の運動神経を誇る彼の挙動には園児達はおろか、教師ですらも追いつく事を許さなかった。間髪入れずに彼の拳はヨシキの顔面へと怒りと共に突き刺さり、彼の足は倒れたヨシキの腹部へと怒りと共に叩き込まれる。怒り狂ったケンジの顔に宿るはまさしく悪鬼羅刹、いや修羅であり憤怒の化現であった。あまりの激情に抑えが利かず、零れた一筋の涙だけが、唯一残った彼の人間…いや幼稚園児らしさであった。そしてケンジの暴挙は即座に先生に抑えられ、彼が更なるお説教を喰らうということで事態は一応の収まりを見せることとなる。


しかしこの一件は二人に大きな禍根を残した。ヨシキは己の謀が全ての原因であることを棚に上げ、殴られ、蹴られた苦しみ、そして襲い掛かられた時の恐怖による恨みを抱え、ケンジはヨシキによるあまりにも卑劣なやり口、そして二回にも渡る由無きお説教に対する怒りが寸分足りとて覚めやら無かった。


この事件以降、ケンジは自分を慕う連中に事情を話し、ヨシキへの復讐を目的とした派閥を結成。もとより運動神経の良さと明るい性格から人望のあった為、暴力沙汰を起したとは言え一定層の理解は得られたのである。悲しむべきことにはそれまで経験したことが無かった裏切りの味が彼を大きく変えてしまい、次第に人を暴力で支配する人間へと変貌させてしまったことに尽きるだろう。派閥内の人間はおろか、一般園児すら少しでも逆らう気配があれば彼と彼の取り巻きによるしっぺ、洗濯ばさみの刑などの暴力が振るわれることとなったのである。

一方でヨシキも信奉者達を集め、改めて派閥を作り出した。彼の最終目標もまたケンジへの復讐であったが、事件の影響から突発的な暴力を恐れるようになり、反逆因子の早期摘発を目的とした密告制度を設けた。彼に逆らう気配のある連中は密告され、彼の実働部隊によっておもちゃを取り上げられる、靴を隠されるなどの陰険な仕打ちを受けるようになった。


このようにして一見和やかな雰囲気のクラスは、水面下では暴力と密告に支配される恐怖政治による統治へと変わっていったのである。一般園児達の顔には常に影が差すようになり、力なき声とまるで揃わぬ音階による合唱会、抽象を通り越してもはや線のみとなったやる気の無いお絵描きを前に先生達も戸惑いを隠すことは出来なかった。一般園児達はもし先生に事情を話せば、それは同時に二つの派閥の悪行を話すことになり、恨みを買うことになる。それに伴う報復を恐れた園児達は一様に口をつぐみ、先生達も何かが起きていることは察していても事態解決への糸口を見つかることが出来なかった。


この事態に対し、強い憂いを覚える人物が居た。


彼の名は石田サトル。金毛堂幼稚園にて唯一名前を漢字で書けることから陰の長老として隠然たる影響力を持つ存在であった。彼は皆が楽しく、穏やかに過ごすことが出来る毎日を望んでいた。報復を恐れ、皆が怯え惑い、監視し合いながら過ごす幼稚園生活など真っ平ごめんであったのである。彼自身が二大派閥に反旗を翻し、闘うことも考えた。彼は勇気と知性ある者だった為、報復など恐れなかった。ただ同時に余りにも心優しい男だった為、自分が報復を受ける姿を皆に見せることで更なる萎縮を引き起こすのではないかということを恐れたのである。状況が変わるには二大派閥の影響力がまとめて消え去る程のインパクトが必要であり、それには今は耐え忍び、機を伺う他無かったのである。


その状況が2週間ほど続いた後、あるニュースが飛び込んできた。

新担任の登場である。


ひなこ先生が急遽家庭の事情により、一時的に幼稚園を去ることになった。そこで暫くの替わりとしてよしの先生という人物が担任につくことになったのだ。

彼女はひなこ先生より若く、また美しかった為、すぐに園児達の人気者になった。恐怖政治の影響力は以前として変わらなかったが、園児達はよしの先生の優しい人柄にほんの少しのだけ元気を取り戻していた。二大派閥の筆頭も互いの憎しみを僅かに忘れ、よしの先生にどちらがより気に入られるかという形での争いにシフトするようになったのである。

石田はこの状況を冷静に観察していた。

今こそ確かによしの先生の登場により、幼稚園は以前の雰囲気を取り戻しつつあるが、彼女はあくまで一時的な存在である。いずれ彼女が居なくなってしまえば暗黒時代の再来は免れえぬものになろう。それであるならば今こそ手を打たねばならぬ。


そして彼はある一手を放つこととなる。

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