プロローグ
鬱注意。
仰向けに寝かされているのだろうか。纏う布越しではあるが、ひんやりとした硬質な感触を背中に感じた。
やけに重い瞼を開き、気だるい体を起こす。焦点の合わない寝ぼけ眼で周囲を見渡すが、幾人かの人が立っていることくらいしか情報が得られない。
少しでも早く目を慣らそうとまばたきを繰り返すこと数回、やっとこさまともに視界を確保できるようになり、改めて周囲を見渡した俺は、なんというか、絶句した。
堅牢そうな石造りの部屋を飾るのは、なにかの紋章が刺繍された絢爛な装飾。道理で薄暗いのはその部屋を照らす光源が蝋燭と松明だけだからだ。やけに広く造られたこの空間には窓一つなく、空気の湿ったところから察するに地下に造られた部屋にあたるのかもしれない。
中央に鎮座する大理石のような石材でしつらえられた台座に居座る俺――竜胆周と、その周囲に立ち尽くしているファンタジーものの小説に登場する魔法使い然とした格好をしたいかにも怪しい雰囲気の人影ら。
そして、なによりこの空間に飛びぬけて似合わない存在は、俺の視線の正面に立つ金色の髪の麗人であろう。
「もし、すみません。不躾ながらお尋ねいたします。貴方様が、四聖の精霊が一柱シルフィード様が遣わされた勇者様であられますか?」
目を疑い、記憶を疑い、挙句、自身の正気までもを疑う。
きっと、今まで生きてきた中で一番の間抜け面を晒していることだろう。
そのくらいに異様な空間に、俺は紛れ込んでしまっているようだった。
欠陥勇者異世界譚――――プロローグ:勇者
二十一年。俺が過ごしてきた年月である。その間に成し遂げたことはといえば、高校三年の夏、剣道の全国大会でベストエイトに名前を残したことくらいだろう。それも物心つく頃から竹刀を振っていた時間が他人よりかは多かったというだけで、取り立てて優れた才能などを持っていたわけでもなんでもなかった。が、周囲の目にはそう見えていなかったようで、ベストエイトの肩書きのおかげでなんとか大学に推薦を貰えたし、見事優勝を果たした選手から過剰なまでの世辞ももらった。
そして、過度なまでの称賛と程々のやっかみを入学祝いに、俺は大学生活への一歩を踏み出した。
それからというもの、周囲の期待に沿えるようにとややオーバーワーク気味の稽古に必死に喰らいつき、入念に健康状態に気を配り、とにかく自分にできる範囲で頑張った。が、それでもやはり勝負は時の運というやつで、春の新人戦では無様に敗北を喫した。
誰も、俺を責めなかった。先輩も、同級生も、師範までもが肩に手を置くように、お前はよくやったと。そう言うのだ。
別に、負けたこと自体はわりかしどうでもよかった。元来勝負事にはあまり執着のないほうだし、初めて負けたというわけでもなかったから。
しかし、思ってしまったのだ。俺から剣道を取ってしまったら、果たしてその後になにが残るのだろうか。そう、思ってしまった。ただ一つ、なにものでもなく剣道を価値とされた俺。剣道を続けていたから俺は俺として認めてもらえた。ならばそれを奪ってしまえば、俺はいったいなんだというのだ。
そこから先は、自分でも馬鹿だと笑いたくなるようなことばかりを考えていた。
特技、取り柄、趣味、なにを前提にしても俺は他人よりか劣っているのだ、と。
そんなことはないと、そう言ってくれる奴がいなかったわけではない。親も、親しかった友人も、距離の近かった女友達も寄ってたかって話しを聞き、慰めてくれた。けれど、それで一度始まった思考が止まるようなことはなく、むしろ加速さえした。そうすればもう、あとは落ちていくだけだった。
俺は、俺という人間に失望しきった。その価値、理由を見失ってしまったのだ。いや、そも見失う以前に、そんなものが本当に存在していたのかさえ怪しいとすら思った。
そして、俺は生きることそれ自体を無意味に感じ、大学を中退、実家に寄生し、たまにアルバイトなどをして無難に、無為に日々を過ごした。
俺の世界は、赤でも、青でも、黒でも白でもなく、すべてが無色に枯れきってしまったのだ。
死にたい。
何度もそう思った。自殺志願者予備軍といった体だった。
人形。生ける屍。生き霊。言い様はそれこそいくらでもあるだろうし、そのどれもが当てはまったに違いない。
何度も風呂桶に水を張って、刃物を手にした。何度も高い建築物から眼下を見下ろした。何度も縄で輪っかを作った。けれど、最終的にそのどれもを実行には移さなかった。
単純に、その直前までいくと、不意に手が止まるのだ。死にたくないと、思ってしまうのだ。
こんなところで人間くさいなと、そんな自分が嫌になる。
無色で、無意味で、それなのに、なぜ死にたくないなどと思ってしまうのだろう。生きることになんの未練もないはずだ。そう思いはしても、なにより死ぬことが怖い。
面倒だ。死にたい。何度も思って、その度に、死にたくないと思う。
馬鹿だと、そう思う。間抜けで、へたれていて、情けなかった。
けれど、終わりは唐突に訪れた。朧にしか捉えられなかった“死”というものが、明確な質量を持って我が身に降りかかってきたのだ。
暴走車両という形でやってきたそれは、あまりに現実的で圧倒的で、あまりそのときの状況は記憶にない。覚えているのは、途轍もない衝撃とそれによる浮遊の感覚、そして、刻一刻と迫ってくる死の予兆のみである。
ただひたすらに恐ろしかった。身体のほとんどが意味を為さない肉片となり果て、それでも落ちることのない意識の片隅で、ひたすらに生を願った。
そして、唐突にそれを悟った。これが、答えだと。死にたくないから、死が怖いから、だから生きる。実に、単純明快だった。もはやそのようなこと、些末な限りであったが。
冷たく、無機質で、無関心で、無情。そんな死が、俺を蝕んだ。
死というものを酷く手軽く、甘く考えていた。そういうふうに考え直させられた。
寂しく、暗く、孤独で、空虚。それが、死。
ああ、ああ、なんというものを欲していたのか。生きたいという本能は、あれはとても正しい。この恐怖を潜在的に恐れ、近づけまいとしていたのだ。
――――いやだ。
――――死にたくない。
――――生きたい。
――――この死を少しでも、一瞬でも早く遠ざけたい。
そんなことばかりが頭をよぎった。やはり、俺はどこまでも人間で、死にたくないから生きている。ただ、それだけ。それが厳然たる事実であり、まごうことなき真実であった。
そして、意識が落ち、俺という存在が世界から消え去ったはず、だった……。
だというのに、これは、この状況はいったいなんだというのだろうか。
それを理解しようと、さも数秒前のように感じるあのおぞましい感覚を思い出したというのに、なに一つこの状況につながらない。
ここは、やはり傍に立っている麗人に話を聞くしかないだろうか。
未だに頭の中を支配している死の感覚を頭を振って払拭してから、胡坐をかいて麗人に向き直る。すると、麗人の背後に控えていた数名の甲冑姿どもに剣呑な雰囲気が出始める。その理由として思い当たるのは、当然のことながら目の前の麗人が彼らに守られる立ち場にある故だろうということ。
だが、まぁ、有体にいえばそんなことはどうでもよかった。
「質問を返すようで恐縮だが、一つ物を尋ねたい。ここはいったいどこだろうか。それだけ、教えてもらいたい」
今まで無視を決め込んでいた人間が、打って変わって話しかけてきたものだから、少しだけその流麗な表情に驚愕の色を滲ませた麗人は、それでもその美貌を損ねることなく、朗らかに笑って俺の行動を特に咎めることもなかった。
「確かに、相手のことを尋ねるより先にこちらのことをお話するのが礼節ですね。失礼しました。ここは、風の大陸。その中心国であるウィンドルス王国の王城内、召喚の間にございます。召喚の儀により導かれし精霊の使徒、風の勇者様」
「か、風の大陸……? それに、俺が勇者だって……?」
「はい。我が国が誇る宮廷霊術師一同が渾身の霊素を込めた召喚の儀に応じ、四聖の精霊が一柱、風の精霊シルフィード様が遣わした風の加護を授かりし勇者様でございます」
「いや、精霊がなんだって? 申し訳ないが、もう少し噛み砕いた説明を頼めるか?」
「ええ、不肖わたくし、ウィンドルス王国第一王女セイラ・ルドルフ・ウィンドルスがお話いたしましょう。我々一同が、貴方様をお呼びした理由を」
そして、名乗りをあげた麗人――セイラ王女は、恭しい礼節とある意味で胡散臭い仰々しさでもって事の次第を語り始めた。
セイラ王女曰く、この世界ーーグランガイアを形作った三柱の神――創生神アストア、運命神ディアス、心情神ゲーテの内の心情神が邪悪に呑まれたことからすべてが始まったらしい。
邪神と化してしまった心情神は、自らの欠片から次々と配下である邪族を生み出していった。それこそ、無限に。
人族の姿をしたもの、現存する魔物の姿をとったもの、どのような生態系から生まれるのか甚だ疑問な異形の姿をしたもの。多種多様な邪族がグランガイアへと侵攻し、その大地を侵さんとそこかしこで暴虐の限りを尽くしたのだという。
それを黙って見ているほど、グランガイアの民は柔ではなかった。すぐにでも、女子供を匿い、戦うことのできる者らが先陣を切って邪族と相対し、そして、延々と途切れることのない戦いの中でその命を散らせていった。
邪神侵攻。
後にそう伝えられるこの戦は、とある組織の発足によって収束を見せた。
ギルドと言われるその組織は、国境を、大陸を、種族間の差さえも超越した連合組合である。これは、人族が誇る賢将と謳われた、炎の大陸ファイナリードのプロミナー王国王国聖騎士隊隊長マクベス・アルフリード公が提案したもので、グランガイアの民を一つの単位とし、種族別ではなくひとまとまりの集団として事に当たろうというものだった。国という国の王族が、貴族が、騎士が、霊術師――俺が元いた世界で認知されているいわゆる魔法使いと同列の存在――が、傭兵が、農民が、商人が、この組合に名を連ね、結託した。
下がりに下がった勝率を結託によって僅かながら覆したグランガイアの民は、そのいつ衰えるとも知れぬなけなしの勢いに乗り、邪族の侵攻を押し返し、生み出され続ける邪族を抑圧し、なんと邪神にすら致命的な一撃を与えてのけた。
これが、グランガイアの底力である。その一文が、なんともいえぬ達筆な字体で古い歴史書に残されていたのを見たとき、セイラ王女はたしかな感動を覚えたとか。
そして、時は流れ、邪神侵攻から幾百年か過ぎた現代の世にて、仮初めの平和の体をとっていた事態が突如として動き始めた。
五つの大陸をわかつ広大な大洋――ゲーテ海の奥底に封じられた邪神の周辺海域にて急激な霊素の動きが観測され、さっぱり音沙汰のなかった邪族たちが積年の屈辱を晴らさんと再び破壊活動を働き始めたのだ。
それが、つい数週間前のこと。
事態は、邪神侵攻からも残り続けるギルド――少々体制は変わったらしいが――が対処をし、随時五大陸の諸侯方に連絡を取りつつ、対邪族の策として長い間議論されていた勇者召喚の儀に関しての方針を煮詰めていたらしい。
それは、希望だった。
得体の知れぬ闇が辺りを包む中で、唯一光が手を差し伸べ、己が運命を変えてくれる。
そんな期待が勇者に、精霊の使徒とやらに向けられている。
きっと、幾分か前の俺ならば、勇んでその立場を受け入れたことだろう。
なにも持たない自分がその存在自体を価値とされ、きっとどこへいったとしても優位な待遇を受ける。ひょっとすれば、選定の剣を引き抜いたり、可愛い女の子たちに囲まれたりなんかもしたかもしれない。浮かれて、持ち上げられて、そして、世界の命運を懸けた戦いの矢面に、文字通り命を賭け金として立たされる。
そうだ、きっとそうなる。そして、それは明確な死との相対であるはずだ。
「……ははっ、ふざけろ」
そう口にして、何度頭の中で思ったところで、一度胸の奥に灯った期待は簡単には払拭しきることなどできはしなかった。
俺は、この世界に必要とされているのだろうか。
この俺が、なにも持たず、一度死にさえした俺が、必要とされているのだろうか。
純粋な期待を抱いた。差し込んだ希望に、顔を向けた。
「俺が……、必要なのか……?」
話の間中合わせていた目――これは性分というやつで、親の教育の賜物だろう――を逸らし、俯き加減で尋ねる。そうしていたので当然見えはしなかったが、セイラ姫はどうやらにこやかに笑った様子でこう言った。
「ええ、ええ。もちろんです。我が大陸においてこのウィンドルスのみが、貴方様のような勇者を召喚することを許されたのですから」
光が、眼前に差した。
手を差し伸べるセイラ姫のその姿は、あたかも天使のように見え、俺はその手を宵闇から光源へと引き付けられる羽虫のように、取ってしまったのだった。