第3章 解散 その1
午前十二時四五分
祐太が自宅へ戻ると、父親が帰宅していた。
父は地元の企業で管理職をやっていて、朝は早くから夜遅くまで仕事で会社にいて、こんな昼間から姿を見るなんて、今日が休日であるかのようだ。
「さすがに今日はな。みんな浮足立って仕事にならん。仕方ないから自宅待機さ」
取引先に一通り連絡して、メールで連絡が付くような体制を整えてきた、と父は言う。
祐太の通う学校でもそうだったが、やはり会社でも同じような状況だそうだ。もう人類終わりだと言われては、仕事をしている余裕もないらしい。とはいえ、隕石が未然に防がれればいつも通りの明日、明後日が来るわけだから、それに備えておく必要もある。
管理職ってのは、そういうところをきちんとやっておくことが仕事なんだ、と言う父。
「母さんは落ち着いた?」
「……いや、あまり」
父によれば、やはり朝食は黒いパンと目玉焼きだったとのことだった。ただ、朝はミネラルウォーターを飲むようにしているので、沸騰コーヒーの犠牲にはならなかった、と笑って言う。
「お前はいつものみんなのところか」
「うん。午後から集まろうって話してるんだけど、その前に会っておきたくてね」
そうか、と父は言う。
「二人は、祖父ちゃんとこに行ったりしないの?」
「さすがに遠いからなぁ」
父は山形の小さな町の出身で、地元では電車が数時間に一本程度と、実家に戻るだけで一日近くかかるし、計画立てていかないと当日中にたどり着くのも難しい場所だ。母は大阪の市街地出身なので比較的戻りやすく、年に一度は帰省している。
「テレビやラジオがまったく使えないから、ネットで調べたんだが、電車もまともに機能してないようだ」
テレビとラジオは、この終末の国連放送を延々と繰り返している。
ホームページはあまり情報が更新されていないため、もっぱらの情報は掲示板サイトやポロリつぶやき交流サイトで集めるしかなかったという。公共の交通機関も、一部の有志だけで運営されているそうで、乗客が集まっても電車自体があまり動いていないそうだ。
「それでも、動いてるだけマシ、なんだよね」
「そうだな。自衛隊みたいな存在とは違って、あくまで民間企業だからな」
都道府県や市などの公務員が運営する交通機関でも、出勤者が少なくて本数が大幅に減っているそうで、そういう覚悟をもって集まったような集団でなければ維持が出来ないのだろう。
いくら国や政府が指示を出したところで、現場の人間が出勤してこなければどうしようもない。そういった人々も、きっと自分のことを棚に上げ、交通機関が動いていないことに文句を言っているのかもしれない。
父ととりとめのない話をしていると、やがて母が昼食の準備ができた、といって声をかけてきた。
揃ってリビングへ向かうと、テーブルの上には大きな皿の上に麺が大量に乗せられていた。薄灰色のは蕎麦で、白いのはウドンだろうか。どことなく、いつもと違うように感じる。
「これなら、失敗しちゃうこともないものね」
箸を伸ばして一掴み、お椀のそばつゆにつけて口に運ぶ祐太。妙にぶよぶよして、口を閉じると圧力をかけていない唇の動きでむにゅっと切れる。
「このうどん、茹ですぎだね……」
「蕎麦は茹で時間が足りないな」
バリバリ、という音が父から聞こえてきたのは気のせいか。祐太は、興味本位でその蕎麦を一本だけ取って口に運んでみる。歯ごたえを通り越した蕎麦の硬さが歯の進行を食い止めてくる。思い切って噛み切ると、それでようやく歯と歯がごつんとぶつかる。
「なるほど、これはまた」
二の句が継げない、とはまさのこのことか。
「とりあえず、食事と言う意味ではこっちのうどんにしたほうがいいよ」
「問題が発生したときの速やかな解決方法としては理想的だが、根本を見直さねば何度でも起こりうるぞ」
と、いかにも管理職らしい父の言。
ごめんね、としょげる母の頭を抱き寄せ、
「いや、いいさ」
とだけ言ってしばらくそのままの姿勢でいる。
この親の醸し出す雰囲気だけで、祐太はとても居辛さを感じてしまう。いっそはっちゃけたラブラブっぷりを発揮してくれれば、祐太としても割り切れる気がするのだが、プラトニックに純愛を貫くものだから、冷やかしにくく、とりあえず見ないふりをすることが一番ダメージを受けないということを何年もかけて発見するに至った。
「蕎麦は、父さんが茹で直すから、待っていてくれ」
大盛りの蕎麦皿を持って、キッチンへと消える父。すぐにコンロの火が起こされる音が聞こえてくる。
「お母さん、ダメね。朝から失敗ばかりで……」
「仕方ないんじゃない? 世界中のどこでも、きっと同じようなことが起こってるって。いきなり覚悟してね、とか言われたって、出来る人のほうが少ないよ」
よくもまぁ、こんな母親からこんなスレた息子が生まれたな、と祐太は思った。父親の遺伝子のほうが強かったのだろうか。
「最悪の覚悟、って康くんも言ってたよ。オレもそんな覚悟は出来てないけど、まぁ、何とかなると思ってるからこんな平常でいられるのかもね」
良くも悪くも、平和ボケした日本人だな、と言っていたのは誰だったか。
常日頃から危険と隣り合わせている国では、最悪の覚悟を済ませて日常を過ごす人が多いという。それはそうだ。日本にいる限り、事故での死亡確率も低いし、大半の人が病気なり寿命なりでじわじわと死に至る。
遠くない未来には死ぬだろう、ということを自身で自覚して初めて、覚悟ができる。明日、銃撃戦に巻き込まれて死ぬ、空爆で死ぬ、テロで死ぬ、なんてことはほぼありえない。
だからこそ、日本中がパニックの寸前になっているのかもしれなかった。
きっと、日常と死とが隣り合わせの国では、いつもの日常風景が繰り返されているのだろう。
「祐ちゃんとお父さんがいれば、怖くはないけど、二人を残して死ぬのも、二人だけが死ぬのも、お母さんはイヤだわ」
「それはオレだってそうさ。まだまだ、長生きしてもらわなきゃ」
と、そこに茹で直された蕎麦を運んできた父が一声差し込んできた。
「そうだな、祐が結婚して、孫を連れてくるまでは、父さんは死なない予定なんだからな」
「そんな予定、知らない間に立てないでよ」
「十年後には実現する予定なんだがなぁ」
「相手がいないってば」
「知香ちゃんと帆華ちゃんがいるじゃない」
「はっ!? ちょ、なにいってるの!?」
母の一言に、祐太はびっくりして思わず叫んでしまった。
「おっと、数年は前倒しになりそうだな」
はっはっは、と低い声で笑う父が、いい感じに茹であがったぞ、と蕎麦を進めてくる。皿に箸を伸ばし、蕎麦汁の椀を経由して口の中に運ぶ。ほどよい硬さで、ぷつんと心地よく噛み切れる蕎麦。
「貧乏学生に乾麺は大切な友達だったからな。今でも茹でるだけなら父さんにだって出来るぞ」
話が逸れた、と祐太が思ったのもつかの間。
「そういえば、幼馴染みの女の子はもう一人いたろう」
「紘華ちゃんね。紘華ちゃんは、康平くんとお付き合いしてるらしいわよ」
「なんで、母さんがそんなことまで」
しかも紘華と康平が付き合い始めた、というのは初耳だった。紘華が康平をそういう目で見ていたのは知っているが、康平にはなんだか断られそうだから、と紘華からはそういうアクションは取っていないはずだ。
家に居場所がない康平は、大学進学と合わせて一人暮らしをする、と言っている。志望校を関西の国立大学にしたのも、出来るだけ実家に近くないところという希望からだ。
秘密基地で、二人きりになった時に聞いたことがある。「紘華と付き合ったりしないのか」と。
それは、紘華から相談を受けていたからであるが、幼馴染みたちの中では、この二人が付き合うのは確定事項だったから、聞いても不自然にはならないか、という憶測もあった。
祐太や直樹にとって紘華は同い年だが姉であり、弟であった。だからこそ、紘華はこの二人に下着を見られようが全裸で前を歩こうが気にしていないのだが、康平の前でだけは別だった。だからこそ、紘華が誰を見ているかは誰の目にも分かりやすかった。
もちろん、康平だってそれを知っていた。知っていたからといって行動には一切表していなかった。
来年には東京を離れるから、受けるわけにはいかないだ、と前に康平が言っていた。恋する乙女の紘華にしてみれば、それでいい、と言うに決まっている。ただ、康平が怖がっていたのは「紘華の心変わり」だった。
両親は仕事仕事で子供を顧みず、一緒に暮らしている祖母は弟にばかり構って康平を疎んでいる。幼い頃は両親にも祖母にも大切にされていた気がするんだが、どうしてこうなったんかな、という康平のつぶやきが、祐太にはとても悲しかったことを覚えている。
だから、幼馴染みたちの中で、康平の家にだけはほとんど押しかけたことがなかった。幸い、幼馴染みたちの親たちは、祐太たちを歓迎してくれているし、実の子供のように大切にしてくれている。
幼稚園からの付き合いで、親たちは親たちで交流しているから、というのもある。
恵まれている、というのは祐太にも理解できている。たまたま、運よくこういう関係が継続しているのだ。
「そうなのか。両手に花とは羨ましいなあ祐太」
「いや、別にそういうわけじゃ」
「はっはっは、とりあえずは一安心だ」
そんな安心はしないでもらいたい、と祐太は思うのだが、そんなのはこの両親には通じないようだ。
たぶん、紘華と康平が付き合っている、というのもきっと親のネットワークだろう。実際には付き合っていないことまでは、きっと把握していないのだろう。康平の親とはつながりがないのだから。
これから会うのに、変なことを言わないで欲しいな、と思う祐太だった。