第1章 日常の崩壊 その3
午前十時二十分
体をゆさゆさと揺らされる感覚に、祐太は目を覚ました。目を半分開けつつ、体を起こそうとしたら、何かに引っかかって起き上がれなかった。
「ん~?」
薄暗い部屋。なんだかいい匂いがする。胸元に頭がある。脳の覚醒に合わせて情報がどんどん更新されていき、何があったのかを思い出す。
「祐太、祐太」
と胸元の頭が名を呼んでくる。
「……知香、か。何してるんだ」
「いや、それはこっちのセリフだと思うけど」
腕は知香の頭の下にある。体はがっちりと知香にホールドされ、足は絡められて身動きが取れない。
「おはよう」
「ん、おはよう。で、なにしてるの」
祐太は少し考えた。記憶を遡ってみる。
「おお、あれだ。必殺人間抱き枕。相手は寝る」
「そんなことを言い出すのは紘華ね」
「うむ、その通り」
下半身がムズムズするかと思ったら、絡んでいた知香の足がほどかれる。続けて、しっかりと固められていた体が解放される。知香は体を動かして祐太の腕から頭をどかす。
不意に自由になった祐太の体が、ベッドから自由落下を開始して、畳の上に転がる。
「あうちっ」
打ち付けた腰をさすりつつ、祐太は上半身を起こして、座り状態へと移行した。あぐらを組むと、体をベッドのほうへと向ける。
「起きたか」
「……まだ、早いけどね」
携帯を開いてみると、午前十時を過ぎたところだった。計算してみると、どうやら一時間ばかり寝てしまっていたようだ。
「もう二限目の時間だろ、いい加減に起きてる時間じゃないのか」
「今日はお休みだから関係ないでしょ」
それはそうなのだが。
「思ってなかったけど。思ってなかったけど。まさか学校サボるなんてな」
「大切でもないことを二回も言ってどうするの」
大切だと思ったんだが、とは言わなかった。
「休んだ理由を聞かれたら、人生に絶望したとでも言えばいいかなって」
「そんな理由で休めたら楽だな」
「今日くらいは許されるでしょ」
隕石の話を聞いて、知香はこれ幸いと二度寝をすることにしたと言った。
「で、今は何を考えてる?」
「決まってるじゃない」
決まっているらしかった。
「二度寝し終わったんだから、三度寝するかどうか悩んでいたの」
「チャットも見てないだろ。昼過ぎに集合だ」
「起きてられるとは思うけど。たぶん、大丈夫」
それはみんなの予想通りであった。
「で、結論は出たの」
「こうしてたら自然と三度寝するんじゃないかな、って」
この幼馴染みであるところの知香は、睡眠のためなら何でもする、と常日頃から断言している。
曰く、授業をちゃんと聞いてノートを取るのは、テスト勉強をしないためであり、テスト休みに補習で惰眠を貪る時間のためである。
曰く、深夜にアニメを見ないのは睡眠時間を削ることになるためである。
曰く、もっとも近所の高校に通うのは、ギリギリまで眠るためである。
──と。
もっとも、三つめについては、幼馴染みグループが全員、近所の高校に進学したためであり、そのための受験勉強をしていたことを祐太は知っている。赤点をギリギリ取らない程度の綱渡りな中学時代の成績では入学が厳しく、仲間内の集会への参加もほどほどに、勉強をしていた。
誰もそれについては追及したりしなかった。同じ高校に通いたい、必要があれば頼ってくるだろう、そう思っていた。
結果として入試という高い壁は無事に突破、幸いなことにこれまでの二年間は同じクラスだった。祐太とは、幼稚園から数えて十四年間同じクラスである。もう二人ほど、同じような人物がいて、共に幼馴染みグループとして行動を共にしてきた。
彼女が入試で唯一ヘルプを頼んだ相手も知っている。もちろん、内緒にという約束だったようで、誰にもその話は漏れていなかったが、そこは幼馴染み同士の間柄。グループ内では知らぬ者はいなかったりする。
「受け答えはしっかりしてるから、眠いわけではないように思うけど」
「んー、確かに目はカンペキに覚めてるねぇ。だからと言って寝ないということはないよ」
知香も体を起こして、声を出しながら伸びをする。ほどよい大きさの胸に押し上げられた薄い青のパジャマの腹のあたりが、カーテンから漏れてくる光でわずかに透ける。
「そうそう。今日と明日は臨時休校だって」
「やっぱりね、そんなことだろうと思った」
「ほんとかよ」
「てきと」
と、知香が祐太の視線の向きがわずかにずれていることに気付いた。
「何、見てるの?」
祐太は返事の前に知香へ手を伸ばすと、パジャマの上着の端を持ち、少し手前に引っ張る。薄い生地が光を通して、布団に青い色を落とす。
「透けてる」
「これ、薄いからね」
と知香は祐太の手からパジャマの端を取り返すとひらひらとさせた。
「見たいの?」
「……いや、特には」
「それはそれでショックだなぁ」
そう言いつつも、知香の表情にはショックを受けたような様子が見えない。
「抱き枕になってた時に触りまくったから?」
「あー、腕が動かせなかったから、それは出来なかったんだよなぁ」
そもそも、そうしようという行動自体は起こさなかったが、レディのプライドを傷つけないような言葉を選んでみた。正直、二人の距離が近すぎるせいか、あまりそういう感情を覚えたりはしないのだが、それは言わないでおく。
「ふーん」
知香も気にした様子はなかった。その気になれば、祐太にはいくらでもその機会があったが、一度もそういったことをしたことはなかった。それが、知香を納得させたのかもしれない。
「で、今日はどうしたの?」
「学校に来なかったから、帰る前に様子を見に来た」
もっとも、学校に来なかったのは知香だけではなく、幼馴染みたち全員なのだが。誰もが気にしていなかったが、学校から近いこともあって、顔をだすことにしたのだ。任せた、と放り投げられてしまっていたし。
「でさ」
知香が口を開く。
「祐太はどう思う」
「どうって」
「隕石のこと」
ニュースの内容自体はきちんと把握していると言った。二度寝を決意するのに十分な程度には調べてるよ、と付け加えた。
「個人的には」
と前置きする祐太。
「あんまり心配はしてない。こんなこと、今までにもなかったわけじゃない」
「ついこの間テレビでやってた映画にはあったけどね。でも、それはあくまでフィクションでしかないよ」
第一、と言って続ける知香。
「国連の事務総長が全世界にスピーチをして、それが日本の全部のテレビ局でリピートされ続けているなんてことは初めてだよ」
テレビに映っていた白人は、国連の事務総長さんだったのか。その肩書きは聞いたことがある祐太だったが、果たしてその役職はどの程度の偉さであるのかは分からなかった。
「とはいえ、世界各国の軍隊が迎撃しようとしてる、って話だろ」
「核保有国は、保有してる核弾頭を全て使う予定だそうね。核弾頭ではない大陸間弾道弾も無数に打ち上げられる見込みだって」
「なら、隕石がどれだけ大きくても平気なんじゃないか。さすがにそれだけの攻撃を耐えられるわけがないだろう」
「……当たれば、ね」
「どういうこと」
「いくらなんでも宇宙空間に向けて打てるわけじゃないし、そもそも超長距離で動いてる的に当てるなんて、ベテランスナイパーだってできるかどうか、って話。だいたい、動体射撃なんて並じゃない難易度なのに、それが高速移動しているわけ」
「だが、的は大きいだろ。当たりそうじゃん」
「空を見上げてさ、飛行機が飛んでるじゃん。ロケットランチャーなりを受け取ってさ、あれを狙い撃てって言われて当たる?」
祐太は考えた。一人称視点の銃撃ゲームはあまりプレイしないが、仲間内で遊んだことはある。そして、飛行体を狙撃したことは、あった気がする。あの時の武器はなんだったか。レア武器の弾速が早い誘導弾だったか。
「その飛行機がはるか頭上から、地面に向かって減速なしに突っ込んでくる。それを、空中にいる間に撃ち落せる?」
「……そりゃあ、難しいな」
「でしょう」
「あれだな、なんだか知香のせいで、ピンチな気がしてきた」
「わたしのせいじゃない。言うでしょ、おまえのうんこで地球がヤバい」
インターネット上では有名なコピペか。光速でうんこしたらどうなるの、って質問の答えだ。
「地球がヤバいな」
「祐太にはこっちのほうが分かりやすかったね」
「う、うむ……」
「まあ、今は高性能な観測機器もあるし、相手は天文単位の規模だから精度は高いだろうけど。それでも、確実ってわけじゃないわよ」
それはちょっとした気休めに思えた。
「わたしは覚悟はしてる。だからこうして寝てる間に全てが終わればいいと思ってる」
どこまで本気なんだろうか、と顔を見ても、いつものように表情に感情が見いだせない。だから、本音を探らないと話が進まなさそうだ。
「諦めてる、ってことか」
「違う。諦めたら試合終了だって言うでしょ。覚悟を決めて最善の行動をする。だから今、寝てる」
「どんな理屈だ」
「今のうちに寝ておけば、明日の朝は早く起きられるかもしれないじゃない」
「なるほどな、自信がなさそうなのが知香っぽい」
「そんなわけで、三度寝するから。あ、抱き枕とって」
机の前の抱き枕を渡すと、知香は嬉しそうに抱きかかえて布団をかぶった。
「はいはい、おやすみ」
と声をかけても返事がない。もう寝てしまったのか、寝るために返答しないことにしたのか。とりあえずどこかに行こうと立ち上がり、一声かけて部屋を出た。
店頭で来ない客を待ち続ける両親に声をかけ、次はどこへ行こにするべきか考えた。