第1章 日常の崩壊 その2
午前九時
チャットを続けていると、始業のチャイムが鳴った。席についていなかったクラスメートたちが、のろのろと自席に戻る。
やがて、担任の三田先生が教室に飛び込んできた。
先生は大股で教壇に立つと、教室全体を見回してから声を発した。
「あー、既に知っているものが大半だろうが、隕石の落下による影響は計り知れない。実際のところはこれから発表があるだろうが、今日と明日は臨時休校となる。君らはまだ高校生だが、最悪の覚悟は出来ると思う。悔いだけは残さないように今日明日を過ごして欲しい。
なに、最悪を覚悟して行動しても、明後日に笑いながら再会することになるだろう。だから、諦めることだけはしてほしくない。自暴自棄になっても、得られるものはないぞ。これは先生との約束な」
言いたいことは言ったぞ、と三田教諭は振り返り、黒板に今日と明日の日付、そして臨時休校と大きめに書き、そして自身の名を署名した。
「以上だ。人類が絶滅しなかったら、また会おう。すまないが、こればっかりは先生に相談されても、何もしてやれない。明後日から、また君らの担任として先生をやれることを楽しみにしている」
最後にそう全体に告げると、教室から出て行った。
確か、あの先生は身重の奥さんが実家に帰っているという話を聞いたことがある。おそらく、そこに向かうのだろう。
学校自体が影響を受けているようだった。公立校なので、政府やら文科省やら教育委員会やら地方自治体やらの影響を受けるのはある意味では当たり前にも思えた。どうやら、今回の発表はそのレベルで影響を及ぼしていることが推測できた。
どこまでも楽観していて大丈夫である、という概念が若干崩れかかった気がした。
「最悪の覚悟、か」
誰にも聞かれることのない独り言を吐き、祐太はこれからどうするか考えた。
いや、考えるまでもなかった。
見回してみれば、すでに何人かは教室を出ていたし、残った連中も帰宅準備を整えていた。
携帯を開くと、チャットにはもう誰も残っておらず、祐太が携帯を閉じてから少しして解散したようだった。
そのログだけを追ってみる。
>ほの お姉ちゃんおかえりー
>ヒロ ヒロ参上~
>ヒロ ログ読み~
>ヒロ ゆーくん、知香ちゃんよろしく~
>ほの じゃ、帰ってきたお姉ちゃんといちゃいちゃするー
>ヒロ かもーん
>K 昼過ぎなー
さて、と祐太はカバンを持って教室を出た。
祐太は学校を出ると、幼馴染みの一人、おそらく寝ていてチャットには参加せずにいた知香の家へと向かうことにした。
その家は、高校の近くにある商店街の一角にある。
普段なら人通りの多い、商店街から駅へと続く道を逆い進んでいく。
行きは商店街を通らないため気づかなかったが、この人通りの少なさは異常に感じられた。朝の早い時間なので、個人商店が大半を占める商店街が活発になるにはあと一時間程度は後のはずである。ただ、開店準備をする店も多かったはずだ。
アーケードで覆われた商店街のメインストリートは、まるで夜半すぎのように空虚だった。通勤ラッシュの時間帯を過ぎたせいなのか、通り抜ける人が数人ばかり見えるが、それだけだった。
商店街へと踏み込むと、ほとんどの店がシャッターを下ろしたまま、開店準備すら行われていないように見えた。いつもならいくつかの店は開いていて、登校する学生、出勤するサラリーマンを目当てに商売をしていたはずだが、そういった店も開いていなかった。
モーニングが評判の喫茶店、高校からもっとも近い店ということもあり人気のあるパン屋や本屋、文具店──
そのどれもがシャッターを下ろしたまま、開ける気配すら感じられなかった。
「なんというか、影響を受けすぎなんじゃないか……?」
いや、もしかすると自分が間違っているのかもしれない、と思い始めてもいた。ただ、それを認めたくはなかった。だってそうだろう、体も心も健康だし、世界はいつものように在り、それなのに明日で人生終わりです、なんて言われても実感など沸きもしない。
商店街は十字に広がっていて、通りには東西南北の名を付けられていた。それほど大きな商店街でもないのに、大げさではないかと、アーケードからぶらさがる通りの名をアピールする看板を見るたびに思う。
北通りを抜けて十字路の中心にたどり着くと、西通りへと向き直ると、一点だけ開いている店があった。
いつも店頭で、長年の酷使によって喉が変質してしまった、しわがれた声を張り上げる八百屋だった。しかし今日は、逆さにしたビール瓶のケースに座り込んで、咥え煙草で人通りのほとんどない商店街を悲しそうな目で見ていた。人通りの中に響き渡る、今日のおススメ野菜のアピールも聞こえてこない。
店の前までやってきた祐太の姿を見て、店主はとても嬉しそうな顔を向けてきた。
「ちっす。おっちゃんは店開けてるんだね」
「あたぼーよ、こんな時だからって店閉めてたら八百屋はやってらんねーよ」
どんな理屈だ、と思ったが、年中無休の八百屋は、近所にスーパーが出来ても、一家が暮らしていける程度には繁盛していた。こういう、いつでも開ける、リクエストされれば答えてくれる、そんな地元密着の八百屋だからこそ、何十年とやってこれたのかもしれない。
商店街の重鎮である八百屋「みやま」を初めて訪れてから、はや十数年経つが、その見た目はまったく変わっていなかった。変わったのは、店主がその年月分の年齢を重ねたことくらいか。
「ま、今日は仕入れた分がはけるかは怪しいけどな」
店主は、すっかり短くなった煙草をバケツに投げ込む。じゅ、と小さな音を立てて煙が出なくなった。肺から口腔に戻ってきた煙を吐き出しながら、祐太を見上げる。
「ユウ、今日はどうした」
「学校が臨時休校になってさ。で、知香が来てなかったから様子を見に、ね」
「知香ならいつも通り寝てるよ」
と、居間でテレビを見ていた奥さんが、つっかけを履きながら顔を出してきた。
「はよーす」
「ユウくん、いつもごめんねぇ。八百屋の娘が朝寝坊だなんて、あたしゃ恥ずかしいよ」
夜が明ける前から市場での仕入れ、店に戻ってきて野菜の陳列、そして店を開ける。昔馴染みでもあったから、祐太は何度か手伝いをしたことがあったが、これを何年も続けろ、と言われたら土下座をしながら全力で逃げ出す自信がある。
そんなときも、八百屋の娘が起きだしてくることはなかった。大きくなれば起きだすようになるだろう、と考えていた店主夫妻の希望を悉く裏切り、先日誕生日を迎えて十七になった今も、自分から起きることはない。
そんな八百屋の娘、宮間知香は祐太の幼馴染みグループの一人だった。幼稚園で同じクラスになってから十年以上の付き合いで、赤城家では野菜はこの八百屋以外で買わないほどには家族間での付き合いもある。
「隕石だか何だか知らないけどさ、商売の邪魔はして欲しくはないねぇ」
おばちゃんらしいや、と祐太は思った。世界が終わることより、商売が大切。こういう考えがないと、商売なんて難しいのかな、なんて思った。
「死ぬときは何をしてたって死ぬんだ。こちとら死ぬまで八百屋よ。隕石め、八百屋なめんな!」
江戸っ子か、というツッコミを口の中で噛み殺す。隕石も、まさか八百屋をなめるな、だなんて言われるとは思っていなかっただろう。もっとも意志があれば、の話にはなるが。
商店街で開いてる店、他になかったよと水を向けると、おばちゃんが答えてくれた。
「朝から仕入れをする店ってあとは魚屋と花屋くらいだしねぇ。どっちも、今日は店閉めて子供のところに行くんだってさ」
「まったく、八百屋なめてんのか」
どう考えても八百屋は関係なかった。
しかし、祐太はいろいろ考えるうえでのヒントをもらったと思った。
最悪の覚悟、ってそういうことなのかな。
もしも本当に終わりが来るなら、というのは考えないようにしていた。もっとも、家で両親と共にその時を待つか、寝ている間に終わって欲しい、という二択以外は現状見いだせていない。
おっちゃんが新しい煙草に火をつけて、吸い込んだ煙を上空に向けて吐き出すついでに言う。
「ユウ、知香んとこ行ってもよ、どうせ寝てるんだ。やっちまえ」
ブフッ、と祐太は噴き出した。この人は、今、なんてことを言った。
「な、何をだよっ!?」
「何って、ナニだろ」
「お、親としていいのかそれはっ!?」
「何言ってるんだ、何のためにたまに手伝いさせてたと思ってるんだ」
返事ができなかった。すべては計算ずくだったとでも言うのか。祐太としてはヤブサカデハナイという心持ちではあるのだが、心の準備とか、心の準備とか、心の準備とか、もろもろ準備が足りてない。
「あんたねぇ……」
おばちゃんの援護射撃が──
「ユウくんヘタレだから、もっと状況を整えないと、って言ってるでしょう」
来ると思っていた援護射撃は追撃として祐太に突き刺さった。
「いいじゃねえか、ある意味、この状況はチャンスだろう」
「だからってねぇ、ほら、ユウくん警戒しちゃってるじゃない」
この二人にとって、規定事項になっていたようだ。まさか、そんな展開があるとは思っていなかった祐太は、逃げたくなった。
が、おっちゃんは祐太の肩を抱き、玄関へと誘導する。
「よし、行って来い。男ってもんを見せつけてやれ」
「ユウくん、期待してるわよ」
背中に汗を多量に感じながら、祐太は宮間家に押し込まれた。
子供の頃から、たまに仕事を手伝ったことがある。声が出てないぞ、それじゃ八百屋にはなれないぞ、と発声の練習をさせられたことも一度や二度ではない。
まさか、それが全部、自分に八百屋を継がせようという意図からだとは思っていなかった。
よくよく思い返してみれば、そういった節はあったような気がする。
セリのやり方を教わったり、業者に紹介されたり、目利きに交渉までやらされたこともある。
ただの手伝いと言い切るには、確かにおかしなところもある。
はぁ、とため息を廊下にまきちらしながら、奥の部屋へ向かう。
廊下に扉はなく、どこの部屋も襖で仕切られていた。商店街にアーケードが付くより、商店街がもっとちんまりとしたころからある店だ。建物自体も相当古い。鍵のかかるドアにしてほしいと、部屋の主が家の主に何度も要請しては却下され続けているのは聞いていた。
年頃の娘としては当然の要求だったとは思うが、うまい感じに聞き流され続けているのに、何度も交渉するのは立派だとは思うが、目的は起こされないため、というのだから、そりゃあ却下もされるだろう。
襖には特に目印もないが、しかしその部屋が目的の部屋であることは知っていた。幼少の頃から何度も入っているし、最近では朝寝坊する少女を起こすために立ち寄ることも多い。むしろ、起こしにこないのが悪い、と公言して遅刻することさえある。
付き合っているわけでもないし何を言っているんだと思う。そもそも、朝寝坊しないように起こしに来てくれるのは幼馴染みの少女に課せられた使命であり、起こされるのは幼馴染みの少年の役割であるはずだ。
アニメやマンガやラノベからの知識ではあるが、間違っていないはずだ。多くの少年少女がそんなシチュエーションを夢想するからこそ、長い時が経ってもお約束として使われ続けるのではないか。祐太はそういった知識を身に着けた次の瞬間には諦めていたが。
夢は夢、現実は現実であり、実際は逆転しているのだ……
襖を開けようと伸ばした手をいったん引っ込めて、改めて手を伸ばし、ぼす、ぼす、と気の抜けたノックをしてみる。襖が相手では、寝坊の達人が起きるような音を出すのは難しかった。
建前としてノックをした、というのはとても大切だ。言い訳が経つ。返事をしなかった、起きなかったほうが悪い、と言い切れるからだ。
襖を開けると、真っ暗な部屋から寝息が聞こえてくる。カーテンの隙間と、廊下からの光に照らされた、奥まったベッドにこんもりとした塊があった。
知香の両親からの公認はあったが、そんなことはする気もなかったが、それでも祐太は襖を閉めてしまった。カーテンの隙間からの光でかすかに見えるベッドに近づいていく。
やれやれ間違いなく寝ている。二度寝を決め込んだ知香が起きているわけがないのは分かっていたのだが。とりあえず座り込んで声をかける。
「よう。起きてるか」
「……」
返事がない。
「やっぱり寝てるか」
「……ぅにゅぅ……」
声に反応はしたが、完全に寝ている。こうなったら知香はしばらく起きない。経験則、という奴だ。もう慣れている。
祐太は布団をめくって知香の顔を覗き見る。幸せそうな寝顔だ。いったいどんな夢を見ているのだろうか。布団から顔を出したせいか、無音だった部屋に知香の寝息が広がっていく。
知香の頬を人差し指でつん、と突いてみると、うーという声を出しながらそこを触ってくる。反応はしたが、それで起きたりはしない。そんな簡単に起きるほど、知香の睡眠欲は並ではない。
と。
知香が手を伸ばしてきた。
「……ま、くらぁ……」
そういえば、お気に入りの抱き枕を抱えていない。部屋を見回してみると、机の近くに抱き枕が転がっていた。薄い桃色の花柄の抱き枕だ。抱き枕が流行した時期に買って、すごいよ、よく眠れるよと騒いでいた。もっとも「そんなん無くても寝れるだろ」と幼馴染み一同には冷ややかな目で見られてはいたが。
さて、このまま抱き枕を与えれば、それを抱きしめてぐっすりと眠り続けるだろう。それでは面白くない。せっかく来たのは、寝顔を見に来たわけではないのだ。ならばどうするか。
布団を奪い取ったところで、起きることはない。そんなことはもう何度も繰り返しており、一度たりとも戦果を挙げたことはない。起き上がった時に、通りでいきなり雪国に連れていかれたわけだ、と怒られた。夢の内容にまで責任を負わされても困ってしまうのだ。
>ゆーた 知香が寝ている。コマンド?
こういう時に頼るべきは仲間だ。携帯からチャットツールを立ち上げ、メッセージを送る。幸い、この部屋の無線LANは携帯に登録してあるので、通話回線が圏外であっても問題はない。
余計な文言は不要であり、これだけで誰にだって通じる。あきれるほどにすぐさま、返答が届く。
>ほの 抱き枕を奪って殴るのがいいと思うのですがー
>ヒロ 技→人間抱き枕
>K 諦めろ
三者三様の返答であった。こういう時に嬉々として変な回答を送ってくるメガネ──直樹が参加していなかった。あいつなら、もっとトンデモナイことを言い出すかと期待していたのだが。何かを待機すると言っていたので、アニメでも見ているのだろうか。平日の午前中だというのに。
>ゆーた 奪う抱き枕はすでに蹴り出されている、繰り返す、すでに蹴り出されている
>ヒロ よし、抱き付け
>ほの そういうのはよくないとおもうのですがー
>K コショウ爆弾だ
返答を見て、ふむ、と考える。コショウ爆弾は部屋にダメージが大きそうだ。何より自分に被害が出るので選択肢から除外。わさびの鼻詰めは大ヒットだったのでやってみたかったが、同じことを繰り返しても面白味がない。二番煎じどころかワンパターンとなってしまう。
>ゆーた この作戦が終わったら、おれプロポーズするんだ
>ヒロ 祝いのパインサラダを用意しておく
>K こんなところにいられるか! 部屋に戻らせてもらう!
>ほの うっはー死亡フラグが立ち過ぎなのですがー
心温まる激励を受け、祐太は作戦を決行する。
うーうー唸って抱き枕を探している知香の眠る布団を半分めくりあげ、体を滑り込ませる。知香に掴まれるより先に抱き付く。
祐太と知香にはそれほど身長差はないが、うまい感じに知香が頭上を開けていたおかげで、祐太の胸元に知香の頭を持ってくる位置取りに成功した。祐太の腕が知香の頭の下に入り込み、腕枕の体勢だ。
必殺人間抱き枕。この技を受けたものは寝る。
知香が祐太の体の下に腕を滑り込ませ、そのままぎゅううう、っと抱きしめてきた。
「うへへへへぇ……」
さらに下半身が知香の足に絡めとられる。もはやどちらが技を仕掛けた側であるか分からない状態になった。
下着を付けていないからか、知香の胸部の柔らかさがダイレクトに伝わってきた。ももの柔らかさも心地よく感じる。
だが祐太は失敗に気付いた。この体勢では、作戦成功の報告が出来ない。死亡フラグを乱立されたせいで、死亡フラグに巻き込まれてしまった気分だ。
「……うーん……」
知香が顔を祐太の胸にこすりつけてくる。
「……うへへぇ……ゆーたのにおいぃ……」
寝ていても嗅覚ってしっかり感じ取れるのかな、と祐太は思った。夢の中でなんだかいい匂いを感じたようなことがあったような気はするが、それが実際にそうだったかは覚えていない。
このまま二度寝をするのもありかもしれないな、とふと思ってしまった祐太は、不意の欠伸を吐き出してしまう。
知香につられてしまったかもしれない。
そう思ったときには、なんだか気持ちよくなってしまい、そのまま夢の中へと落ちていった。




