第1章 日常の崩壊 その1
第1章 日常の崩壊
午前七時
小鳥のさえずりさえ聞こえてきそうな早朝、祐太は母親に叩き起こされた。
あと五分と言えば十三分後に再度起こしに来るような母親が、慌てた様子で起こしにきたので、祐太としては何事か問題でもあったのかと思わずにはいられなかった。
目覚まし時計の鳴る時間まで、まだ一時間近くある。きっちり六時間寝て朝すっきりと起きるようにしている祐太の頭の中は覚醒しきっていなかったが、欠伸を垂れ流しながら、母親の待つリビングへと向かった。
「ふぁぁぁ~ふぁ~ふぉ~」
挨拶をしようとしたが、口を開いた瞬間に、欠伸が自己主張をしてしまい、何を言っているのか分からない。むしろ、ただの欠伸にしか聞こえなかった。
「祐ちゃん、早く早く」
と、母親がリビングで存在感を示す三人掛けのソファをパンパンと叩いて誘導してくる。祐太は示されたその場に座り、正面にあるテレビへと目を向けた。
テレビに映っていたのは、見覚えのない白人の男性だった。初老に近いと思われるその白人男性は、テレビの向こうで英語でスピーチをしていた。
手元にある原稿を読んでいるのか、カメラをあまり見ていないようであった。
英語のスピーチの途中で、日本語が聞こえてきた。同時通訳されたナレーションのようだ。聞こえてくる日本語に耳を傾ける。
「……地球に飛来する隕石の大きさは観測によれば二十キロもの大型サイズで、このサイズの隕石が落下した場合、ほぼ確実に人類は──いえ、地球上の生物は絶滅するでしょう」
何を言っているんだろう、この男は。
祐太が最初に思ったのはそんなことだった。
「……地球は未曽有の危機に晒されています。現在、世界各国の常備軍がこの隕石を迎撃するべく準備を進めています。粉砕すること最善の結果ではありますが、隕石のサイズや速度、およびその組成次第ではそれもかなわない可能性があります」
ハリウッド製のパニック映画か。
数年前に上映された、全米ナンバーワンヒットとして日本に輸入された映画を思い出す祐太。その映画は、アメリカ大統領がスペースシャトルで隕石に向かって出撃して、爆破ミッションに成功し、地球の危機を救う、というものであった。
幼馴染みたちと見に行ったのだが、彼らの言をまとめると「B級映画として見れば面白いけど、全米ナンバーワンなんて宣伝文句が独り歩きしてるんじゃねーか」と酷評されてしまった。
祐太としては、戻ることの敵わない片道切符であることを理解しながら、大統領として人々を守ることが使命であると覚悟を決めたあの主役がとても気に入っていたんのだが。
「……残された猶予はおよそ二十四時間あまり。標準時零時二十三分頃に地球と衝突することになります」
ひどく現実味のない話だ。
二十四時間後に全ての人間が死にます、という死刑宣告を受けて、ああそうですか、と理解できる人間がいるとは思えない。パニックを通り越して、笑いすらこみあげてくる。
一通りのスピーチが終わると、その白人男性──国連の事務総長らしい──が、同じ原稿を頭から読み直し始めた。
テレビの字幕によれば、新しい情報が入るまで、このスピーチが繰り返されるらしい。そして、新しい情報が入ると、次のスピーチが行われるとのことだ。つまり、これ以上見ていても新しい情報がすぐに入ってくることはなさそうだ。
寝ぼけた頭はいつの間にか覚醒を終え、欠伸もでなくなっていた。
さて、もう一眠りと思ったが、左手が母親に掴まれていた。持ち上げると、母親の両手が付いてきた。
「母さん、朝ごはん食べたい」
そう声をかけると慌てて手を放して、そうね、と言った。キッチンへ向かう母の背を目で追う。かなり動揺しているようで、それが背後から見ていてもはっきりと感じ取れた。
「まぁ、あれだね、結局はこの間の気象衛星だっけ、あれのときと同じなんじゃないかな」
祐太の口からようやく欠伸もでなくなったのは、祐太の部屋で鳴り響く目覚まし時計を止めに戻り、リビングへと再びやってくる頃だった。
キッチンから、あまり嗅ぎたくない種類のにおいが漂ってきた。祐太はイヤな予感を覚えずにはいられない。
「隕石なんて、毎年たくさん落ちてきてるでしょ。流れ星だって大気圏での摩擦で燃えてる隕石だって言うし」
暦の上では夏になり、すでに三週間が経っているが、祐太の目の前には湯気をもうもうと立てる真っ黒なコーヒーの入ったマグカップ。それを手に取って、猫舌だって忘れてないかな、と口につける直前で息を吹きかけてちまちまと飲み、額に汗を軽く浮かべながら母親を落ち着かせようとする。
「でもでも、朝からこの隕石のことだけ、どこのテレビ局でもずっと同じ放送してるのよ。そりゃあね、お母さんだって大げさなんじゃないか、って思ったりもしたけど、それにしては話がすごい大きいものって気がするでしょ、だってどこのテレビ局でも同じ放送してるのよ」
どこかぽやっとしてる割に、思考回路は意外と全うな母のはずだったが、同じことを繰り返して言う。テレビや新聞が正しい、というのは前世期的な思考だと祐太は考えている。
様々な価値観を持った多くの人がそこに介在しており、事実だけが並べ立てられているわけではない以上、どこかに意識的か無意識的かは別にしろ、何かしらの操作が含まれる。
そういった考え方はインターネットに毒されていると自覚しつつも、祐太は割と正しいと考えている。すべてをそのまま受け入れるのではなく、自身できちんと考えて、その上で受け入れるように心がけていた。
「そりゃ、最悪の場合はそうなるかもねって話でしょ。そもそも、数年に一度かの大事だったら、どこの局も緊急放送とか言って同じこと繰り返し放送してるでしょうが」
「うーん、それはそうなんだけど」
「そもそも明日で地球終わりーとかだったら、こんな放送してる余裕もないでしょ。ノストラダムスとかマヤの暦の終わりとか、世紀末だーってイベントが今まで何度あったのさ。頭のイカれた連中に、最後だから大暴れしちまいなー、って免罪符を与えるようなもんだし」
言いながら、祐太は逆の可能性もあるんだよな、と考えた。
──最期だから悔いを残さないように、残された二四時間余りを過ごして欲しい、というメッセージである可能性が。
あの放送だけでは、どちらとも受け取れる。おそらく続報はあるだろう。
そもそも、なぜこんなギリギリのタイミングでの告知だったのだろうか。
それほど巨大な隕石なら、数多のアマチュア天文家だって発見していただろう。なのに、なぜ今まで話題にすらならなかったのか。昨日発見された、と言っていたがどこまでが本当のことなのだろうか。
なんとも答えの出にくい問題だなあ。
それ以前に、陰謀論は自分の担当分野じゃない、あとで専門家に聞いてみるほうが確実か。祐太はそこまで考えて、これ以上悩んでも仕方がない、と結論を出すことにした。
焦げだらけの苦い朝食と、汗が噴き出るコーヒーを飲み干して、祐太は登校の準備をするために部屋へと戻った。