第4章 夜明けまで その1
午後六時二十五分
太陽はすでに見えなくなり、秘密基地は真っ暗になってしまった。この辺りは公園として解放されていないため、外灯も設置されていない。星明りだけが明かりだが、さすがにそれでは自分の手すら鮮明には見えない。
うっすらと人影があることが分かるだけの暗闇だ。
それでも、この時間まで誰もが帰ることを選択しなかった。誰もが、それを言い出したくない、選択したくないというのが分かったから、誰もが何も言わずに、他愛のない会話が繰り返されていた。
それを破ったのは、年長者である康平だった。
「そろそろ、解散するぞ」
しかし、誰もそれに答えなかった。
「俺たちはガキだけど、ガキらしく家に帰ろうや」
そう言う康平ではあったが、誰もがその康平自身がギリギリまで家に帰らないことを知っている。だからと言って、それを指摘したりしない。
顔を見合わせて、どう返答したものかと、答えあぐねている様子が、みんなに見て取れた。
ここは、言い出さないといけないか、と祐太は決意した。
「そう、だね。明日また結成式するんだし、寝坊しないように帰ろうか」
「……寝坊なんて、しないわよ」
ちょっとだけ拗ねた物言いをする知香ではあったが、康平と祐太、二人の言うことには反対しなかった。
「家に帰って、布団の中からチャットに参加するわ」
「だね、そろそろ緑の声が聞きたくなったよ」
「明日までのお別れ、ですがー」
「よっし」
「そろそろ帰らないと、父さんたちも帰ってきてそうだしね
敢えて声を出して同意することで、決意を固めた一同が、座り込んでいた草むらから腰を上げる。ぼやっとした輪郭しか見えないが、長い付き合いなだけに、誰が誰だかの区別をすることは問題なく行うことができた。
誰かが最初の一歩を踏み出すのを、みんなが待っていた。
そして、その先陣を切ったのは、直樹だった。
「んじゃお先に。明日は、今日と同じ時間でいいのかな」
「おう、昼飯食ったらだな」
後ろ手に手を振りながら、直樹が藪の道に向かっていく。十年近く通った道だけに、真っ暗でもどこへ行けばいいのか分かる、という足取りであった。
「さて、おれも行くよ」
祐太がそう声を上げる。知香と帆華が、それに同調する。
「お姉ちゃん、先に帰るよ」
紘華が残り続けることは、誰もが分かっていた。だからこそ、祐太は声を上げたのだ。知香と帆華が同町してくると分かっていたから。そうして、この場に康平と紘華だけが残り続ける。
それが、今あるべき姿なのかもしれない、と思った。
先頭を立って歩き始めた祐太に、慌てて知香と帆華が付き従う。
「また明日~! まぁチャットで、かもしれないけど」
「おう、またなー!」
「祐くん、帆華をよろしくね」
「あいあい」
祐太の背後に、二人の気配がついてくるのが感じ取れた。だから敢えて振り向いたりせず、藪の道も先頭に立って進んでいく。少し歩いて、自然公園の展望台に出た。
展望台には、数組のカップルと思われる人影が見えた。
外灯に照らされる展望広場は、歩くのに支障がない程度に足元が明るい。振り返ってみれば、二人の少女が藪から出てきたところだった。
その少女たちは左右から祐太を捕獲すると、広場の端のほう、住宅街を見下ろせる柵の前まで連れていく。
「こうやって街並みを見るのも、久しぶりな気がするのですがー」
「そうね。いつでも見れると思って、通り過ぎてばかりだった気がするわ」
確かに、前にこの景色を見たのはいつだったろうか、と祐太は記憶を遡ってみたが、そんな記憶は思い出せなかった。中学時代だったかもしれないし、小学生の頃だったかもしれない。
見た記憶はあるのに、それがいつだったか思い出せないほどに昔なのか、気にもしていなかったのか。
こうして住宅街を見ていると、こんな平和な景色があるんだな、と素直にそう思えた。
家々に灯る明かり、外灯に照らされる道、そんな景色が遠くまで続いている。山なりになっているところで途切れてしまうまで、ずっとずっと広がっている。その向こうにもかすかに見えるが、もはやそれが町の明かりなのか、正面のほうにある星の明かりなのか、区別がつかない。
これが、今住んでいる町。もしかすると、これで見おさめになるかもしれない光景。そう思うと、この景色は心の中にきっちりと記憶しておきたかった。
「ねえ知香ちゃん。言ってもいい?」
と、帆華が何かの許可を求めた。
知香は少しだけ考えて、
「そうね、もしかしたら、今がその時なのかもしれないね」
と答えた。
二人の中にだけある、秘密の約束。踏み越えることを、お互いにおそれた淑女同盟。それを今、お互いの目の前で破棄、自身の目的をただ解き放つ。
帆華は祐太の腕を放した。そして、柵に寄り掛かるように、祐太の前に立つ。
「わたしね、祐ちゃんが好き。お兄ちゃんとして、じゃなくて、男の人として、好き。なのですがー」
一言一言、強い思いを込めた告白。
曖昧なままになっていた、年下の少女からの思いに、祐太もこれはごまかせる場面ではないと悟る。
何かを言おうとして口を開こうとしても、言葉がなぜか紡ぐことができない。声にならない音だけが喉を駆け抜ける。
それを見かねた知香が、ちょっと痛みがある程度の一撃を祐太の脇腹に叩きいれる。それがきっかけとなって、祐太の喉が音を声に変えた。
「あ、ありがとう。そうだな、おれもいろいろと態度を曖昧にしちゃってたけど──」
「ストップ、というところなのですがー」
と、帆華が祐太の口に人差し指を当ててそこまで、というジェスチャーをする。
「返事は聞きたい、すごく聞きたい。でも、今は聞きたくない。だから明日。明日聞きたい。明日のお昼に、ここで。
……もしオーケーでもダメでも、隕石が落ちてきちゃって死んじゃうかも、っていう今だと、きっといろいろと明日までが辛くなるし。
だから、明日がいい」
まっすぐと祐太を見つめてくる帆華。これだけ真摯な帆華の目を見たのは、初めてかもしれない。いつも笑顔で、変な語尾を「キャラ付け、ってやつなのですがー」とよく分からないことを続け、そして好意自体は伝わってはいたが、それがどのレイヤーでのものか、図り切れていなかった。
もう、妹的な存在としてではなく、一人の女の子として見るほかになくなる。
「それから、まだ続きがあるのですがー」
と帆華は知香に向き直る。
「わたしだけ、というのも心苦しかったりするのですがー?」
「そう? 私は特に気にならないけど」
「いやいや、ここはあれですよ、んじゃわたしも、という流れだと思うのですがー」
「と、言われてもねぇ……」
そう言って祐太に向き直った知香は軽い調子で言い放つ。
「私は祐太が好きよ。愛してるわ。もちろん、男として、という意味で。知ってるわよね」
急に言われて、祐太は思考停止。しばらくして脳が再起動した。
「えっ!」
「えっ?」
「……えぇ~、どういうことだってばよ! と思うのですがー」
帆華の呆れた声に、知香はちょっと慌てて、
「え、って。待って待って。だって、私は特に隠したりなんてしてなかったつもりだけど」
「あ、いや、うーん」
「ちょっと~知香ちゃ~ん、説明が欲しい! のですがー」
「……まぁ、つまり、そういうこと?」
ちょっと照れた様子を見せる知香。
「いや、あのね、むしろこっちがどういうこと、って聞きたいくらいよ」
祐太自身も、混乱していた。知香に、そんな好意を伝えられたことがあっただろうか。思い返してみても思い当たる節がない。
「ああ、うん、そうなんだ……」
とだけしか言えない祐太。なんと言えばいいのか、それが頭の中でまとまらない。
「そうね、とりあえず今はどうするの、というのを明日聞きましょうか。うん、それがいいわ」
と知香は勝手に話をまとめてしまう。これ以上は、知香自身も恥ずかしさがフィーバーしてしまいそうだった。
「えぇ~わたしは納得できないですがー。あれですか、正妻の余裕って奴でわたしのやることを見てた、ってことになるんですがー。どうせ祐太はわたしのものなんだから、みたいなことずっと思っていたというのはかなりショックですがー。
はっ、まさかすでに付き合ってるつもりだったとか、それはかなりあり得ないんですがー。知香ちゃん、説明を求めたいんですがー」
「いやね、そのね、私としては伝えていたつもりでいたけど、返事はもらってなかったつもり、というか、そのね、帆華ちゃんのこともあるし、すぐにどうこう、というつもりもなかったというか」
わやくちゃになって弁明する知香を、どうだか、と言わんばかりの座った目で見る帆華。
どうしたらいいのかな、と思いながらもそれを声に出せない祐太。へたに何かを言うと、さらにややこしいことになりそうな気がした。
知香の両親から、知香と一緒に八百屋を継いでくれ、と言われたことは何度もあるが、そのたびに知香は「そういう未来もあるかもしれないわね」としか言っていなかった。もしかして、それが知香にとって好意を告げたことになるのだろうか。
同じクラスで仲がいいところを見た同級生が「ラブラブか! 付き合ってるのか!」と何度も言われたが、そのたびに知香は「付き合ってはいないわね」とだけ返していた。それはもしかして、付き合っているという部分だけを否定していたのだろうか。
一生懸命に頭を捻って記憶を思い返そうとしても、どうしても好意を肯定した部分が出てこない。否定しなかった部分ばかりだ。
「オーケー、じゃあ解決方法を提案するのですがー。知香ちゃん、告白をやり直し! もっかい、ちゃんとやって! そして、ちゃんと勝負!」
帆華が鼻息荒く息巻いている。自分を選んでもらいたい、という欲求だけではなさそうだ。知香に隠れず、正々堂々としたい、そういう気持ちが強く表れている。
「いや、だって、もう言ったし、それでいいじゃない」
「ダメ、それはわたしが納得できないの! ですが! さあ、もっかい!」
帆華は祐太と知香が向かい合うように、二人の体を懸命に回転させる。その強い力に、強い思いを感じた知香は、諦めてされるがままになる。祐太は、特に抵抗しなかったので、結果として帆華が思った通りの形になった。
「さあ、どうぞ!」
ですがー、と付け忘れるほどに帆華は興奮しているようだった。先に進むためにはきちんと告げるしかない、と諦めた知香が口を開く。
「祐太、好き、大好き、愛してる」
あまりにもシンプルな告白であったが、それだけに思いの強さが祐太の心を直撃する。言った知香は赤面していたが、言われた祐太はもっと赤面していた。あまりのことに、祐太は言葉も忘れ、ただただ知香を見つめ続けた。
見つめ合う二人。
それを帆華が割って入る。
「はい、ストップストップ、それ以上いけない」
放置したら、キスでもしでかしそうな様子だったので、さすがに止めざるを得なかった。
「これでイーブン、正々堂々。あとは、祐ちゃんが返事をくれるのを待つだけ」
帆華は一拍置いて、忘れてしまっていた言葉を追加する。
「という感じですがー」
「……改めて言うのって、ちょっと恥ずかしいわね」
「わたしは別に恥ずかしくないのですがー」
「……そう」
知香は住宅街のほうへ目をやった。この明かりの中だけでも、たくさんの人がいる。世界に目を向ければ、この何百倍、何千倍では足りないほどの人がいる。その全ての人々の運命が、もう半日ばかりで終わってしまうのだ。
そう思うと、とても悲しくなってきた。自分に出来ることは、何もない。そして、明日の午後がとても楽しみな自分がここいにいる。願わくば、何事もなく、明日を迎えられますように。その思いだけが、知香の心の中を支配していく。
「明日のお昼、ね。楽しみにしているわ」
「わたしも楽しみなのですがー」
「ああ、なんだか隕石よりも、そっちで胃が痛くなりそうだよ」
二人からのプレッシャーに、祐太が下腹部をさする。少し、気が楽になったかもしれない。だが、二十四時間あると思っていた残り時間は、半日ばかりが過ぎてしまっている。
このままいられたら、どれだけ幸福だろうか。
「じゃあ、帰りましょうか」
「二人とも、送っていくよ」
「大丈夫ですがー」
「いや、時間的には大丈夫なんだろうけど、時期というかタイミングというか、何か面倒事が起こる情勢だからね」
「……それは確かにそうなのですがー」
「送ってもらいなさい、あんたは駅前なんだから、商店街なんかよりずっと危ないわよ」
「そう、かもしれないですがー。もちろん、知香ちゃんもですがー」
「私は別に……」
「いや、知香もだよ。それくらいは、したいんだ」
「そう、うん、よろしくお願いするわね」
祐太は二人の了解を取り付けて、知香、帆華の順に家まで送り届けることにした。




