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エルの絵本「笛吹き男とパレード」より着想

作者: 青い鴉

 主は仰った。私が行って、ハーメルンの人々に約束を守らせよう。彼らは約束を違えないし、ペテンに掛けるのはなおさら不可能だ。なぜなら彼らはかつてマグスとの約束を破り、百と三十人の子らを失うという手痛いしっぺ返しを食らったのだから。

 そうとも。彼らは約束を守るだろう。己が子のために、未来永劫守るだろう。ああ、その約束を取り交わすのには、大層難儀するだろうが。しかし私にはそれができる。

 

 そうやって書き出された物語は、安易に終わることを許されなかった。私には才能も努力も無かったし、なにより私にはその物語のあとを続ける勇気が無かった。私は悩んだ。悩み続けた。その物語を完結させるべきなのだろうかと。それは私の義務なのだろうかと。

 私の姉は病室で死んだ。肺炎だった。医者は決まりきった手順みたいに抗生物質を投与して、経過を観察した。それでも治らなかった姉は、隔離病棟に移された。入院するときに姉の持って行ったノートには、ボールペンで物語が書かれていた。まるで最初から何を書くか決めていたかのように、一文字も取り消されずに書きこまれた文章。そのちっぽけな遺物を、私は姉が死んだときに引き継いだ。

 小学生だった私には、それが姉からの最後の贈り物なのだと思った。私はつらい時、苦しい時、悲しい時に、そのノートを取り出して読み返した。何度読み返しても、中途半端な物語だった。私はその都度、物語の続きを空想して、痛みを乗り越えてきた。

 

 主は仰った。ハーメルンの人々との約束は取り交わされた、と。神と人との間に生まれた子が、約束の印を持って彼らの中から現れる。魔法使いのようなその子は、ハーメルンの人々を悩ますだろう。しかし彼こそが不死の命を持つ英雄なのだ。英雄は悪魔を討つために鍛えられた剣を持ち、死を退ける靴を履いて地の底に降りてゆくだろう。

 しかし羊飼いは問うた。その剣をどうやって鍛えましょう。我らの中に鍛冶はおらず、またどれほど腕のたつ鍛冶を見つけ出したとて、悪魔を斬る白銀の宝剣を打つ金床がどこにありましょうや。靴もそうです。我らの知る限り、どこを探しても死を退ける靴を作る職人はおりますまい。たった一人の英雄を得たとて、我らに何の手助けができましょう。

 

 物語はいつもそこで終わっている。私はノートを閉じて、机の引き出しの中にしまう。風呂には入った。明日は部活の朝練がある。もう寝なくては。電気を消そうと立ち上がった拍子に、机に立てられた鏡をふと見る。髪型は別におかしくない。耳の形が変なのは前からだ。ああ。そして疑問がむくりと頭をもたげる。それで結局、主は何と言い返したのだろう。

 

 なにも案ずることはない。丘の向こうの老婆が、剣を鍛えるに足る強い男を知っている。まだ幼いその義理の孫は、いまに屈強な鍛冶屋になるだろう。川の向こうの老人が、靴を作るに足る男を知っている。まだ幼いその義理の孫は、いまに立派な靴職人になるだろう。だからもう物語の役者は揃ったのだ。あとはハーメルンの人々の勇気を祈ろう。たとえ死んでも約束を違えぬ、鋼のように勇敢な覚悟に。

 そう言い残すと、主はもとからそうであったように天上に帰っていった。主を取り巻いていた羊飼いたちは短い祈りを唱えると、地平線へと目をやった。太陽が昇ろうとしているのだ。羊飼いたちはそれぞれの粗末な家へと散った。約束の日には、年老いた自分達はもういない。主の御言葉を受け継ぐのは、彼らの子と孫の仕事になるだろう。

 

 始めてそのノートを誰かに見せたのは、高校生になってからだ。私は運動部で活躍する傍ら、文藝部にも籍を置いていた。部室となっている図書準備室で、部長になぜ文藝部なんかに入ったのかとしつこく問われて、私はしぶしぶそのノートを見せたのだった。

 

「君が書いたの?」「ううん、姉が」「美人なの?」「もう死んでる」

 

 私が答えると、部長は一瞬考えて。

 

「で、その続きを書きたくて、君は文藝部に入ったの?」と訊いてきた。

 

 私の答えを待たずに、部長は言葉を繋げた。それは物語だよ。十分にお話になっている。君は物語の中を生きているんだ。いいなあ。うらやましいなあ。僕なんか一人っ子でさ、両親が共働きだからちっとも構ってもらえなかった。それで本の世界に逃げ込んだわけだけど、やっぱりそういう境遇の人たちって根性がひん曲がっているだろう? 望んで友達になりたいなんていう人間はめったにいやしない。ねえ、僕の言いたいことは分かる? 君は十分に好意に値する人間なんだ。僕は君のことが好きになったよ。

 私は部長の言っていることがよくわからなくて、ただうんうんと頷いているのが精一杯だった。そうして、私達はなし崩し的に付き合い始めた。姉の紹介で知り合った仲だと言ったら、親は驚くだろうか。部長は私の考えた物語を聴いて、何度も何度も推敲に付き合ってくれた。

 

 ハーメルンに魔法使いの子供が生まれたという噂が羊飼いたちの元へと届いたのは、だいぶ後のことだ。それは彼らが子供だった頃、何度も何度も言い聞かされた話だった。その子供は魔法使いではなく、やがて英雄となる子供なのだと、羊飼いたちは知っていた。

 集まりの中で、一人の女の子が使いに選ばれ、主の御言葉を書いた手紙を届けることになった。羊飼いたちは狼と寒さから羊を守るのに忙しく、誰も持ち場を離れられなかったのだ。その女の子の名はユリディスといい、魔法使いと思われていた子供は、オルフェといった。

 ハーメルンに向かったユリディスは、その道中で、少年と、青年と、老人に出会った。少年は金貨10枚と引き換えに、もと来た道を引き返すように言った。ユリディスは断った。青年は牝牛10頭と引き換えに、できたら引き返すように言った。ユリディスはこれも断った。最後に老人が現れて、お前の親が死んでしまったから、すぐに引き返すように言った。ユリディスは、その言葉がもし嘘でなく真実であったらと、悲しみに涙を零したが、その申し出も断った。するとそこで少年と青年と老人が揃って現れ、非礼を詫び、自分はオルフェ本人であることを明かしたのである。

 

 部長は、それは試練だねと言った。こういう物語には試練というものが必要だ。試練を通して、女の子の持つ勇気が証明される。やがてオルフェの恋人となるには、条件がある。まず勇気があること、次に誠実なことだ。美しさはそれについてくるオマケでしかない。でもきっとユリディスは美しい女性になるだろうね。

 

 オルフェはユリディスの勇気に敬意を表し、彼女の行くべき道を指し示した。それでハーメルンの町長は手紙を受け取り、オルフェが言い伝えにある通り、悪魔を討つ英雄なのだと認めることとなった。ハーメルンの人間は約束を違えない、と町長は言った。主との約束ならばなおさらである。オルフェの数々の悪戯は帳消しになり、特に笛を吹くことが許された。それまでハーメルンでは、どんな笛吹きも忌み嫌われて追い出されると相場が決まっていたのである。

 しかしあらためて耳を傾けると、オルフェの奏でる調べはたいそう美しいものだった。ユニコーンの肉を食らったという噂の音楽家でさえ、オルフェの調べを聴けば手放しで褒め称えただろう。実際、その音楽は天上のものであり、人の耳にするなかでは、最も美しいものの一つであった。

 丘の向うの鍛冶屋が白銀の剣を鍛え、川の向うの靴屋が死を退ける靴を作った。かくして運命は動き出し、オルフェは明日にも地獄に降りていくことになった。オルフェはユリディスに、自分が帰ってきたら伴侶となって欲しいと願うと、ユリディスは承知した。帰ってくるのが遅れても待っていてくれるかと問うと、ユリディスは重ねて承知した。ユリディスは信じて待っています。何年でも何十年でも、と。

 

 そしてまた月日は流れるの、と私は言った。それはとても悲しいこと。

 

 オルフェはその得意の調べで黄泉の河を渡り、三つ首の魔犬ケルベロスをもなだめすかして、地獄へと下った。しかし悪魔の総数は七百四十万五千九百二十六。さすがの英雄もこの数には弱音を吐いた。

 ああユリディスよ。おまえと契った約束に何の意味があろう。人は年老い、天は割け、地は滅び、私が帰るころには、もうハーメルンには誰も居ないのではなかろうか。ならば私は何のために戦うのだ。そうだ。今すぐ引き返せば、まだ間に合うかもしれない。だがユリディスに何と言えばいい? お前に会いたくて逃げ帰ってきたなどと、口が裂けても言えるものか。主よ。私は運命の通りに悪魔を倒すだろう。だからユリディスを生かしておいてくれ。このオルフェがユリディスの死に際に間に合うよう取り計らっておくれ。

 

 オルフェは悪魔たちと合戦を行い、その巧みな誘惑と攻撃をはねつけて白銀の剣で屠った。一つ、また一つと悪魔の魂が砕け散るたび、地上での月日が流れていった。とうとうオルフェの剣は欠け、靴は擦り切れた。それを見て、悪魔たちはあざけり笑った。

 いかな英雄とて、名のある悪魔の全ては殺せぬとみえる。この地獄では、主への祈りは届かず、またその加護も無い。欠けた剣を打ちなおす鍛冶屋も、擦り切れた靴に皮を張る靴屋もいない。半神半人の英雄にも、そろそろ死が這い寄ってくるころだろうよ。

 

 しかしオルフェの瞳には、まだ希望の灯があった。オルフェは笛を取り出し、悪魔の調べを奏でたのである。何千何万の悪魔を殺す中で、ついにオルフェは悪魔を操る笛の音を編み出していたのだ。

 その調べにつられて名のある大悪魔たちが現れ、ぞろぞろとオルフェの後ろについていった。そしてそれはすぐに地獄の大パレードになった。悪魔も、悪霊も、亡者たちも、心に罪を抱く者は、オルフェの笛の音には抗えない。オルフェの向かう先は地獄の最果ての渓谷。誰も彼もがその行く先を知っていたが、知らず知らずのうちに足が踊ってしまうのである。

 

 既に私の靴は擦り切れ、死が襲ってくるのも時間の問題だ。ならばその前に、なるべく多くの悪魔を道連れにしてやろう。オルフェはそう決意すると、渓谷の奥へ奥へと降りて行った。パレードもそれに続いて、地獄の底の底へと転がり落ちていった。渓谷の最奥、深淵の深淵まで悪魔たちを案内すると、唐突にオルフェは叫んだ。

 

「渓谷よ閉じよ! 悪魔たちを封じ込めよ!」

 

 そしてそのようになった。オルフェの言葉通り渓谷は閉じ、オルフェ共々悪魔たちはその中に閉じ込められたのである。

 オルフェの心残りは、ユリディスのことであった。毎日欠かさず主に祈りを捧げ、死ぬまでオルフェの帰還を信じていたであろう娘。己の伴侶となるはずだったユリディス。

 オルフェは渓谷が閉じる寸前に、天上に向けて短い調べを吹いた。その最期の音は甲高く、大地を貫き、はるか天上へと届いた。天使たちはその調べを聞いて、地獄の悪魔がついに死に絶えたことを知ったのだ。

 聖なるかな聖なるかな。あった。ある。あるだろう主よ。ついにやった。オルフェがやった。天使たちは主を讃える歌を紡ぎ、その歓喜は天上を満たした。


 そのとき、ハーメルンの町はまだあった。ハーメルンの町長はオルフェとの約束を引き継ぎ、未来永劫ユリディスの墓を守っていた。墓には、こう刻まれていた。オルフェを待つユリディス、ここに眠る。悲しむなかれ。二人はやがて天国で出会う定めなれば、と。

 

 オルフェとユリディスは結局会えなかったんだね、と部長は言った。私は全ての物語がハッピーエンドで終わるわけではないと思う、と言い返した。姉ならばどうしただろう。むりやりハッピーエンドにしたのだろうか。いや、そんな無粋なことはすまい。もしデウス・エクス・マキナが現れても、半神半人のオルフェと人間のユリディスは、結局は永遠に分かたれる定めなのだ。

 それにしても、キリスト教とギリシャ神話とドイツ民話が混じったような、ひどい物語だ。せめてどれか一つに絞れれば良かったのだが、私の少ない引き出しの中にはばらばらのパーツしかなかったのだからしかたがない。部長はそんな私の思いを汲み取ったのか、世の中には完璧な物語なんて無いとか、書き上げてからの推敲が重要だとか、そういうことを言っている。たぶんそうなのだろう。姉と私が完成させた物語は、不完全で、まだまだ改稿の余地がある。

 けれども次の墓参りの時には、このノートを持って行こう。始まった物語が終わったことを、姉に胸を張って報告しようと、そう心に決める。

 

 今度は、私の物語を書く番だ。私は部長のことをちらと眺めると、真っ白なノートの一ページ目を開いて、思うさまペンを走らせた。

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