第九話
狼魔が風を切るように駆ける。
ぐるぐると戦士達を囲み回り、隙あらば牙で喉を貫こうとしている。一瞬たりとも気を休める事は出来ない。
「うじゃうじゃと…」
焦りが戦士達の精神を蝕んでゆく。あまりの敵の数の多さ。異常な死線に摩擦され続けた肉体と魂は今にも壊れそうだ。
「騎士団はまだかっ」
バンシャが叫ぶ。
のろしをあげてから未だ半刻も経っていないという現実が冷たくあざ笑う。
「負けるかっ」
ディノが剣を大きく狼魔に降り下ろす。
かわされた!
ディノは焦りに捕われた自身を憎んだ。大きく下ろした剣が地面の土にぶつかり爆ぜる。
狼魔がディノの首に牙を向けるーー。
死。
いや、違う。
狼魔の牙がディノの首の動脈を切り裂く寸前。狼魔の体を光が突き刺した!
狼魔の悲痛な叫びが轟く。叫んだのは、ディノを襲った一体だけではなかった。
魔物、テントを囲んだ魔物の全てが、叫び、床に倒れ、苦痛にうめきながら痙攣している。
「どうなってるんだ!」
ディノの疑問の声に、バンシャが呆然として呟いた。
「…魔法だ」
戦士達は皆、その一点を見つめていた。テント。ロッゾのテントが、内から淡く優しい緑色に輝いている。
ディノがテントに向かい猛然と走り出す。
魔法、そんなものを使えるのは、あいつしかいない。
「アーシェ!」
ディノの声に気付いて、アーシェが顔をあげる。
信じられない事に、アーシェが全身から光を放っている。いや、全身の皮膚を覆う紋様が緑に輝いているのだ。
古代文字だろうか?先程までは皮膚にあんなものは無かった。
「アーシェ、それ、なに!?」
ディノの酷く驚いた様子に戸惑い、しどろもどろになりながらアーシェは答えた。
「…麻痺の呪文の魔法紋です。体を痙攣させるのです。死の世界、といいます。」
魔法紋とは、別名聖紋と呼ばれ、聖なる力特有の魔法陣の事だ。
聖なる力には、人体に魔法陣が浮かびあがるという特徴があるとは噂には聞いていたが…。
死の世界。確かに魔物が悶え苦しむ光景は、さながら死の世界だ。
アーシェの体から段々と光が弱まっていく。力が切れようとしているのだ。
「ありがとうっ」
ディノは一言感謝の言葉を投げ込むと、早々と踵を返した。
魔法が切れたら再び襲ってくるかもしれない。
バンシャの元へと駆けるディノの目に、魔物達が体を震わせうろたえる姿が飛込む。あるものは走り、あるものは這うようにテントの周囲から離れていく。
効いている。勝ち目が無いと判断したのか。遠くにいる魔物すっかり戦意を喪失している様子である。
「やった…」
だか、それはほんの一息の安息だった。
ディノはその揺らぎに、地震が起こったのだと思った。
だが、そのあまりにも激しく且つ微弱な振動にリズムのようなものを感じた。
そしてすぐ、その揺れの正体に気付いた。信じたくはなかったが、目の前にした以上、現実は夢幻に成り得ない。
「伏せろ!」
ディノとバンシャの声が折り重なり響いたと思うと、轟音が宙を切り裂いた。
風が奔流となり、逃げ遅れた魔物達を八つ裂きにする!
それは、三本の太くて鋭い爪だった。
「化け物だ!」
戦士達が悲鳴をあげだ。
無理もない。眼前で爪に刺さった魔物を食らうのは、異常なまでに大きな熊だった。
爪が発達し、肩まで覆っている。背は戦士達の実に三倍はある。
「親玉、いやガキ大将の登場か。禍禍しいな。旅人を食ったのはコイツか」
食われた魔物がボロ衣と寸分違わない姿で捨てられていく。魔物を優雅に食いながら、その目は既に戦士達に向けられていた。
逃げられないだろう間違いなく。ならば
「やるまでだ!」
バンシャを筆頭に戦士達が駆け出す。
大熊が気付いて爪を戦士達に振り下ろす。何人かが暴風と鋭い爪に押され吹き飛んだ。
攻撃をかわし、バンシャが大斧を振った。
がちんと硬い音が響いた。爪でバンシャの巌も砕く一撃をとめたのだ。
バンシャの後に続くように走り込んだ戦士達の斧や剣までも。生臭い匂い。
大熊は小さく息をすると、軽々と人々を弾き飛ばす。かわしきれなかった者達の体が子供が投げた玩具のように宙ヘ放られる。
血しぶきと悲鳴が拡散する。
先程、大量の魔物達と対峙した後である為に、既に体力が限界に近付こうとしている者達は、大熊の爪から逃れられない。
大熊は傷付き血を流す弱った個体に目をつけた。
「うわぁぁぁ!!」
腕から血を流していた戦士のひとりが爪に捕えられる。
抵抗するも身動きが出来ないようだ。そればかりか、今にも潰される勢いだ。
戦士達が青ざめ爪にめがけて怒涛の攻撃を集中させるもビクともしない爪は、戦士を空に掲げる。
獣が口を開く。
「させるか!」
バンシャが大斧を熊の胴体めがけて投げつける。片方の爪が難無く弾いた。
が、それが一瞬の隙を作った。風より早く跳躍したディノの剣が熊の額をかちわる!
「あぎゃああっ」
まるで理性のない赤ん坊のような声。戦士を掴んでいた爪に力がこもる、が、戦士の体が柔らかな果実のごとく潰される寸前に、バンシャの大斧が熊の腕を切断した!
絶叫が爆ぜるーー
大熊が叫び、のけぞる。倒したか、そう戦士達は思ったが、全くの逆であった。
雄叫び。大熊の怒りが頂点にたっしたのだ。
「くるぞ!かわせ!」ディノの叫びに似た戦士達への命令が無様に熊の地響きのような足音にかき消される。怒涛の突進!
戦士達の群れを太鼓のように熊の巨体がぶつかり、跳ね飛ばされる。
戦士達は何が起こったのかも分からずに地面にたたき付けられた。
頭から、背から強く打ち付けられ、戦士達は足を失った蟻のようにうろたえる。熊が地面に横たわりうごめく彼等に更に向かう。
させるか、と突進を避けた者達が熊に向かうが、回避により離れた距離はあまりに大きかった。間に合わないーーー。
「光の矢!」
洗練された音楽ような言葉。瞬間、熊の肩に輝く細い矢のようなものがあたり、熊が横に崩れた。
「火であり土であり水であり風である者よ、その肉体のあるべき力を表せ。器の癒し!」
アーシェである。
テントを抜けて聖女は飛び出した。彼女の全身がこの世のありとあらゆる光に包まれ、光が爆ぜる。
それは、四散し、傷付いた者達の全身をつつむ。戦士達の傷口がみるみるうちにただの皮膚となってゆく。
それを横目に、バンシャとディノの二人はまるで二対の刃のように熊に向かって大地を蹴ってゆく。
「でぇぇい!!」
十字の切っ先の煌めき。その光に押されるように、熊の体が吹き飛んだ!
飛弾する熊の最期の叫びと血。熊はそのまま地面にめり込み、ぴたりとその動きをとめた……。
終った?終った!
戦士達の間から歓声が沸き、まっすぐに彼等はある人物の元にひた走ってゆく。彼等が囲んだのは、熊を薙ぎ倒したバンシャやディノではなく…。
「アーシェさん、凄いっす!」
「魔法か!」
「助かった!」
称賛のあらし。アーシェが戸惑ってディノをちらちらとみつめる。その光景は、肉食獣の獅子達に囲まれた一匹の兎のよう。
「…なにあれ」
全身で激しく息をし足りない酸素にうめきながら、大量の汗をぼうだと流すディノがバンシャにぽつりと漏らす。
同等の様であるバンシャは、更にボスにいつもは見せる尊敬の眼差しを一片も向けない部下達を、眉間に怒りの皺を刻んで睨んでいる。目立ちたがりの二人の自尊心がぷちぷちと湯気をたてる。
「お前ら!!」
二人がキレたのは、見事に同時であった。