第三十八話
体と世界の境界線を失った、穏やかな静けさに抱かれているのを、感じた。
まるで海におちてゆくようだった。
息苦しさのない、大海。
…。
誰かが、自分の名を呼んでいる。
…ぃ…。
顔をあげて見ると、水面とも雲海とも見える光の戯れがある。
とはいっても、それが上なのか下なのか、真実は定かではなかったが。
芯から暖まれる熱が、頬を撫でる。
…ぃ、ざ…
光は、誰でもない、自分の名前を叫んでいる。名を呼ぶ声の主は姿なくともすぐ分かる。
―ルナファラ。
俺は、自分の名前を呼ぶ、あの人に答える。
あぁ、あなたは微笑んでいるのか?
…十六夜…
ようやく、姿が見えようとしていた。乳白色の霞のなか、ゆっくりと近付いてくるあなたを感じた。
俺はずっと、狂っていたような気がする。あなたとの誓いを、忘れてしまっていたような、あなたを悲しませていたような、そんな気が。
―ルナファラ―
あなたを抱き締めるために、もう一度この腕をひろげよう。
もう一度あなたに出会おう。
もう一度。
―もう、大丈夫だよ―
「…くぁ、」
どれほど、光のなかで呆然と立ち尽くしていたのだろうか。ディノはまばたきをして、ゆっくりと光の荒波で奪われた景色を取り戻していった。そうしてようやく、自分がどこに立っていたのかに気付くと、ディノの意識が鮮明となり、なにが起こったのかを理解する。
周囲から、邪悪な念が跡形なく取り払われていた。
「アーシェ、ユズ!」
ディノは、寄り添うように倒れているアーシェとユズに近寄ると、その体を揺さぶった。
「ん…」
刺激で、アーシェとユズが覚醒する。すぐさまアーシェは上体を起こすと、陣は、と呟いた。
「成功したみてーだ。」
ディノの歯を出した笑みを見ると、アーシェは力を失って再び横になる。
「大丈夫?」
ユズがアーシェの体をさすると、
「ええ、それより…。」
アーシェは、そのかそけき人を見やった。二人も倣う。
視線の先には、あの二人が寄り添うように佇んでいた。
「ありがとう、聖なる女性…いいえ、アーシェ。そしてユズ、ディノ。」
ルナファラが真摯さの光る瞳で穏やかに見つめ返す。その細い肩に、十六夜の手があった。
十六夜が口をひらく。先ほどの声とはちがう、少しかすれた男性の、ひとつだけの声をもって。
「少年、怪我はないか?」
「ないよ。死ぬかと思ったけどな。」
ディノがおチャラけて両手をあげると、十六夜が小さく噴き出した。
「君は愉快な男だな。そうか、それなら良かった。…君は、強いな。」
「あんたもな!」
ディノの心には、大きな満足感があった。強い者と…しかも本来なら剣をあわせることなど不可能な存在と剣を交えられた喜びが、彼の中で大きく弾けていた。
それは十六夜も同じことだろうか?何故なら、二人とも同じような表情をしている。遊びに疲れて倒れこんだ子供のような表情だ。
「…いつか君は私を超えるだろう。そして風馬の務めを越えて、君の力は世界に必要となる。」
「褒めすぎだぜ…」
「そのうち、分かる。」
「…どういう、こと?」
十六夜の言葉に、ユズが問いかける。十六夜はその問いに答えず、かわりにルナファラを見やった。促されるように、ルナファラが頷く。
「世界の魔法気流に異変が生じています。平原の封印を壊すほどの強い異変が。」
ルナファラの言葉は、予想外のものだった。
「なんだ、俺のせいじゃなかったのかぁ。」
ホッとするディノに向けられるユズの冷たい目。それをごまかすように、ディノは瞬時に真剣な顔を繕った。
「なんでだ?」
「理由はわかりません。ですが、封印にこれほどの影響を与える魔法気流の変化は、長い人の世において一度もありません。今は枯れ果てた大地となった隣国バーミアでの魔法戦を彷彿させる乱気流です。」
隣国、バーミア王国。
貿易により栄え、広大な国土と強大な力を持って世界に名を轟かせていた国である。あの長いゼルダ街道の製作も、バーミアの力によるものだ。ドラグノアはバーミアと共に栄えたと言っても過言ではない。
だが、遠い日に起こった激しい内乱において、かの国は草木の生えぬ灰色の大地と化した。すべては、莫大な国財を魔法につぎ込んだためであった。魔法の激しい気流の乱れに、大地が崩壊したのだ。
内乱は大地の崩壊と共にその炎を弱め、万を超す難民を生み、国を巻き込んで消滅した。
かつて栄華を極めたバーミアの王国は、いまは熱砂の吹き荒れる遺灰の大地だ。
「世界は、やはり灰の大地のようになるのでしょうか。」
アーシェが暗い表情で呟く。
ディノは戸惑った。
やはり、とは、どういうことなのか。アーシェはまだなにかを隠しているのか?
「分かりません。それを知るために、あなたは月へと赴くのでしょう?」
どうしてそれを、というアーシェの言葉を、ルナファラは腕で遮って
「あなたが教えてくれたのですよ。強い決意が、私には聞こえます。」
ルナファラは深く礼をした。
「同じ力を持ち、スピカとイェズガルドの教えを受け継ぐひと、私はあなたの旅の行く末を聖なる園と共に見届けましょう。」
アーシェもまた、同じように礼を返す。…失われた記憶の世界でかいま見た、ルナファラの生き方に敬意を表して。
と。
突然、十六夜が腕をかざして思わぬことを口にした。
「…では、踊ってくれないか。」 かざす彼の片手は、ユズに向かっている。
「へ?!」
ユズは驚いて飛び上がった。
「こらこら、成人の儀がまだ終わっていないだろう?」
「「「あ」」」
ユズ、ディノ、アーシェの三人がまったく同時に声をあげる。三人とも、すっかり忘れていたのだ…。
「封印はもう大丈夫。千年の時の緩みも強く結ばれた。心行くまで、踊りなさい。」
「…はい!」
ユズは十六夜の言葉に強く答えると、剣をかざした。
その瞳に、もう迷いはない。前夜祭、星の流れる空の下で抱いた不安も焦燥もそこには塵ひとつなかった。
大人ではない、女性でもない。それらを超越した、高みがあった。
…―人間に、成る―…
成人となったユズの舞が始まる。
凛と張りのある声が、まんをじして封印の上で弾けとぶ。
「−−−壱!!」