第三十七話
「これ…」
ユズはその音楽を耳にして、目を見開いた。
耳に覚えがあった。幼い日から、産まれる前から何度も何度も聞いていたあの歌。
驚いて見渡すと、歌っているのはアーシェだと分かった。黙祷でもしているかのように暗くうつ向いて、だが軽やかに歌を歌っている。正確にいうと、それは歌ではなく、不思議な音律の流れ。人から人へと伝わるには困難なおと。
間違いではないかと思い、耳をすました。だが、間違いではない。風馬ではないものが、あの歌を歌っている。
「羽化の儀式の曲だよ、アーシェ。」
ユズの胸元に、熱い鼓動が宿っていく。頭より体が、体よりも魂がその音を知っていた。聖なる力が魔法を媒体としてゆっくり大地を流転するのが、心臓で理解できる。
「ルナファラは、私は…」
ユズは考えあぐねていた。迷って迷って決めかねる答えを、大人たちは守るべき者を背に簡単にきめてしまう。
それは正しいの?間違いなの?それとも、正しいも間違いも当てはまらない何かがあるの?
アーシェの歌声を源に、魔法陣に光がともり始めた。蛍のような光は、規則もなく炎のように力をだす。その光に、誘われるようにぞわぞわと動くモノがあった。
怨念だ。
怨念が壁や魔法陣から、生えてきていた。それらはまるでいもむしのようにうねり、部屋の表面を舐めるように這う。
なんということだ。魔霊窟全体、そして草原の彼方から誘われた怨念が、この部屋に終結している。彼等はもちろん、アーシェを終点としていた。
彼等が来るのを予測していたのだろう、ルナファラが再び飛ぶ。体を大の字に伸ばし、髪の先にまで念を送る。
『怨念たちよ、私はここだ』
怨念たちはルナファラの存在に気付き波打つと、ひとつの意思を束を形作る。ルナファラは、自らを餌としたのだ。
束は巨大な蛇となってルナファラに襲いかかる。その光景は、荒れ狂う海を必死で逃げる小舟に似ていた。今にも、呑まれてしまいそうな。
意を決して、ユズは結界を飛び出した。
パリパリと結界が破れてユズに絡み付く、それを手で払いながらルナファラへと疾駆する。
「かとんの術っ」
ユズは指先で簡易な魔法陣の印を組んで空中へと向けた。途端に、印の中から拳ほどの火の玉が生まれ、大蛇へと飛込んでゆく。
ぼんっ、と大蛇の一部が小さく爆発し、散る。だが、大蛇を目の前にして、ユズの幼い術はさほど効かない。
「怨念って、本当に厄介!」
ユズは二本のこぶりな刀を取り出すと、構えた。
「危ない、逃げるのですっ。あなたには倒せません!」
「いやだ!」
気持ちが駆け出し、もう止まらない。なにが正しい、なにが間違いだと考えるよりも、自分の体と気持ちの方が、もう強かった。
「逃げないよっ、来い!」
大蛇が、とぐろを巻いてルナファラからユズへと方向を転換、飛ぶ。
ユズは息を整えると、その時を待った。大蛇の動きと、あの曲だけに集中して。
「いぃい…壱っっ!!」
猛烈な風の摩擦音。
耳を引き裂くような音のなか、ユズは目をひらいて己のやいば見た。
やいばが、怨念を確かに捕えている。思ったとおり――。
「弐!!」
ユズは剣を斜め上になぎく。怨念の鼻先を、ユズの刀が確実にそぎ落とす。ディノの剣とまったく同じ効力をもって、ユズの剣が踊り上がる!
ユズは、剣舞いをしていた。
その舞いは、風馬に、そして聖園に、音楽と共に引き継がれた古い舞。
「あれは、羽化の舞…、そうか。羽化の舞をもって、部屋に散らばる聖紋の力を呼び寄せたのですか。」
ルナファラは息を飲んだ。
羽化の舞で封印をしていたことを知り、逆に羽化の舞で聖なる力を引き出せると推測して、大蛇を誘ったユズの賢さと度胸に、ルナファラは驚いた。
だが、舞という制限された動きの中で戦うのには無理がある。その内、制限された動きに敵も気付くだろう。あくまで、時間かせぎだ。
「うあっ!」
ディノの声。
ディノの剣が、十六夜の刀に弾かれた。
隙をねらって、十六夜の突きが繰り出される。ディノは体をのけぞり二対の突きをなんとかかわすが、脇腹を浅く切られる。
後退。
遠くまで飛ばされた剣をとりに行きたいが、それを十六夜が許さない。
ディノは十六夜の刀を体だけでかわしてゆく。二本の流れは素早く、かわすと次々に皮膚を切られた。
血がにじみ、瞳に入る。
「ちっ、」
息が次第にあがってゆく。剣がないことで一気に増大した運動量が、容赦なく体力を削ぎおとしてゆくのがディノには分かった。
せめて、剣をとれれば――。
その時、ディノは転がった剣に近付く人影を目にした。
ルナファラだ。
ルナファラは、剣を手にすると、ディノへとすぐさま向かう。
「来るなっ!」
気付くと、ルナファラの目の前に十六夜がいた。十六夜のなんの感情もみられなかった瞳が、ルナファラを目の前にしてその色を変える。
「し、ネ…」
十六夜の刀が、大きく掲げられ、そしてルナファラの頭へと一気に落下する。
ルナファラは、目を閉じた。死を、そして全ての破壊が瞼に映った。
…だが、ルナファラの予測と違い、最期の時は訪れなかった。
かわりに、光が。
光が訪れていた。
「古の浄化、刹那は積雪となって石と還る。血脈は踊り出て蜂起する、誘う争いを」
「尊父と母堂は血を混ぜて我等をつくりて轍をなすだろう」
アーシェが、歌っている。
「呪いは呪いのまま、十六の夜に掲げよう。朔の年がまた始まる」
「空を欲するなら、さぁここにおいで」
あの、歌を。
アーシェはそれまで閉じていた瞳を、かっと見開いた。
「天・逝・儀・廻…!!」
白。
そして全ての色。
アーシェの歌が発動した瞬間、極彩色が周囲からほとばしった。聖なる力と魔法が大気となり颶風となって、生き物のように魔法陣を駆ける。湧き水のように光が伝い、溢れる。疾風は雪崩のように部屋を飲み込んでゆく…!
「わっ!」
巨大な流れはあっという間にユズ、ルナファラ、ディノ、そして怨念たちを抱擁する。身構える隙さえあたえず、全てが白と変わる。
…全てが。
やがて、人々の歓喜が聞こえた。
肉体に植え付けられた苦痛により魂に生まれた歪みをほぐされた人の喜びの声が。
記憶と哀れみの浄化による解放はしこうの喜びを与えて、彼等を安らぎへと誘う。
忘却の旅路へと。
…痛くない、
…苦しくない…
千年もの長きをかせられた重圧が、砂のように崩れてゆく。
今まさに、怨念もまた、光に変わる…。
そこには、静謐があった。