第三十六話
ディノと十六夜の攻防。
一気に十六夜に近付き、まず第一手として垂直に剣を振る。刃はいとも簡単に弾かれ、ディノは即座に後退した。鼻の先を銀の光がかすめる。
二本の細身の剣。
刀と呼ばれる、クナイと同じく風馬一族独特の刃だ。遠く西の地から伝わる、よく風を斬り、軽いが丈夫な剣である。
スタンダードな形のものだが、邪気のためがまがまがしく感じた。
「イヤミだな」
太古から怨念をしずませてきた風馬の剣を、怨念に操られた風馬を作った男がふるう。
「こてんぱんにしたろーじゃんっ。」
十六夜の追撃。
それをディノはかわし、剣を横になぐ。
十六夜、回避。二本の刀を交えて剣をとめ、反射のように刃を返す。ディノ、跳んでかわす。
両者一歩もひかず、戦いは尚すすむ。
はぜる刀と刀の音を背にして、ルナファラはアーシェにとうた。
「聖なる女、あなたは私に協力してくれるだろうか。このような、私欲にまみれた私に。」
「わたしは…」
アーシェは一息おいて、
「わたしは私欲とも偽善だとも思いません。あなたが人を救いたいという気持は、徳を渇望したものかもしれませんが、あなたは自分を犠牲にしている。」
その答えに、ルナファラは頭をふった。それは否定とも、拒絶とも捕えられた。
「あなたはそう思うのか」
「えぇ、にくまれ続けることは悲しいことです。それでも尚、背負う。現に多くの魂が救われている。救われていないのは、あなただけ。自分の責任だと、自分さえも呪うのは、偽善だと私は思いません。」
ルナファラは、思ってもみなかったアーシェの発言に、目を伏せた。長い睫に隠れた瞳は、幼い子どものものだ。
「利害は一致しています。ディノは契約のため、ユズちゃんは儀式のため、そして私は旅を続けるために。」
アーシェは腰を下ろしてルナファラを見つめた。
「頑張りましょう。」
「えぇ。」
儀式の前夜で見た舞と音楽は、聖園の鎮魂術と同じものであった。
その意味は、きっと。
「ルナファラ、あなたのかわりに。」
アーシェは目を閉じた。
魔法気流が喉をならしてアーシェの世界を包みこむ。
魔法は、巨大な蛇のように床だけではなく壁も天井もなめらかに這っている。
それらに、五感と、そして第六感が次第に委ねられてゆく。意識が、ゆっくり溶けこむ。肉体の感覚が失われてゆく。記憶だけのいきものになる。
なんという激しい魔法の乱気流。
アーシェは自分の意識が紙くずとなって闇の中でもてあそばれるのを感じた。
まるで頭をかきまぜられているみたいだ。びりびりと、意識を引き裂かれる。
アーシェは必死に自身を想像し、或いは思いだし続けた。
毛の色、肌の色、瞳の色、血の色。
自分を保つために、摩擦される自分をたぐりよせる。分裂する自分を掻き集める。
様々な記憶の嵐だ。
ありとあらゆる歴史、何千何百という人生が肉体を失ってもなお喚き、抵抗している。
雷雨のような怒り、にくしみ。残酷な最期がそえぎとなって瀑布となる。無数の悲しみがアーシェの記憶となって体を強かに叩き続ける。
アーシェは感情の深淵へと落ちてゆく。アーシェのものではない人生が、記憶が、アーシェのものとして次々と想起される。
あの日、アーシェは、年老いた母をくちべらしとして山に捨てた。
次の日、親友を裏切り兵士に密告し、銀貨をもらった。
昨日は、地主の畑から野菜を盗んだために、病気の子を馬に牽かれた。
そして、手を縄で繋がれ鞭でたたかれながら、草原を歩いた。真っ青な蒼い空は昼間は燃えるように暑く、闇は悪魔のように冷たくさめた。
あの日、あの時、その日、その時、それまで、それから…。
違う。
それは私の記憶ではない。
私は、私のなまえは…
「アーシェ」
振り替えると、
そこには、母がいた。
母は、優しい姿をしていた。
鱗と長い爪を光らせ、腹部に触れると温かい。私は抱きついて母の肌に頬をつけた。
「アーシェ」
母は、産まれたばかりの鳥の柔らかさを持つ翼で、私を抱き締めると、歌を歌う。母の歌を聞くと、誰もが悲しみから救われる気がする。
「アーシェ、」
おやすみなさい、
おねむりなさい、と。
「生きることは死ぬことと似ている」
「どんな英雄もつちくれとなり、空しさはふと顔を出すでしょう。なぜ生きるのか、なぜ死ぬのか、それさえも生き物たちは分からないでしょう」
「ですがそれでも、生き物たちは生き続けようとします。魂だけとなって、それでも生き物は繋ごうとするのです。死に続けても、生き続ける。生きることに、全てがあるからです。」
おやすみなさい、
おねむりなさい。
「生きなさい、全てをみるために。」
「生きなさい、全てを感じるために。」
たとえ、世界が
悲しみばかりにみえても。
少しずつ、視界が白く染まってゆくのをアーシェは感じた。ミルクのように甘い眠りが、アーシェをゆっくりと包んでゆくのだ。
アーシェは繭のように、丸まる。丸くなり、丸くなり、指を失った。
次は足を失い、やがてアーシェは腕をうしなった。
なんという、優しい落下だろう。
落ちてゆく、落ちてゆく、落ちて…
「スピカ」
アーシェは、糸がはりつめてしまったかのように止まった。
「スピカ…」
アーシェは気付いてゆく。この白い世界は、眠りの世界ではないことに。
アーシェはだんだんと気付いていった。
自分が、光のなかにいることに。
目を開くと、アーシェは朝のこもれ日のなかにいた。
見渡すと、懐かしい感覚が胸をくすぐった。自分がいる場所に、アーシェは覚えがあった。
空中庭園。
聖園の最上階にある、無数の花がゆれる園だ。円を描くように育てられた極彩色からは、心休まる麗しい芳香が揺れている。
アーシェは花の香りを吸おうと、無心の中で体を前に傾けた。
瞬間、グラリ、と体が大きく倒れそうになり、のけぞった。
なんとか、安定する。
なにごとかと自分をよく見ると、まだ繭のまま手足がない自分がいた。
そうだ、私には手足がないのだった。
「スピカ、」
自身の名前を呼ばれて、反射的に目の前にたたずむ人物の名を呼んだ。
「ルナファラ。」
ルナファラは、小さなその手で黄色い花をつまむと、花びんをぷっと千切って私の頭の上に置いた。
「あなたの綺麗な水色の髪には、色鮮やかな花がとても似合うわね。この庭はこれからあなたのものよ。良い庭師を雇って、けしてからしてはいけないのよ。きっと花の香りに誘われて、素敵な男性たちにモテモテよ。」
ルナファラが私の髪をなでる。私には、それがとてもここちよかった。
「この庭はあなたのものよ。それに、手足のない醜い怪物に寄り添う男性なんかいないわよ。」
「スピカ、あなたは自分を知らないだけよ。あなたほど美しくて可愛らしい女性は世界中を探したってどこにもいないのよ。それにもう、あなたたちが怪物と呼ばれる時代も終るのだから。」
「私はずっとルナファラの側にいるよ?」
私は、まっすぐにルナファラを見つめた。ルナファラは、私をずっとみている。穏やかな瞳で。
「同じ力をもったあなたは、私の最高の友達よ。だけれど、新しい時代に、私は必要がないのよ。ヒュームの王の血は、必要がないものなのよ。ヒルドが王になるとき、私が生きていては彼は王になれないのよ。」
私に優しく言ってもだめなのよ。私は必死に、ルナファラに訴えた。
「そんなことないわ、きっと兄さん達がなんとかしてくれるっ。右の兄さんも、左の兄さんも愉快な兄さんなのよ。なにより、賢いの。きっとヒルドにだって、」
「ヒルドは私を許さないわ」
私は、涙がこみあげるのを感じた。
「あなたは頑固で我儘だわ」
「そう、あなたとそっくりね」
ルナファラは私をぎゅっと抱き締めた。
たぶん、抱き締められるのはこれが最後だ。私に抱き返す腕があればいいのにと悔しくなるのも、きっと、本当に、最期だ。
「聖園の物語を覚えている?」
「えぇ、覚えてるわ。」
「悪い魔女が死んで、生き物たちは歓喜の声をあげ、竜が空を飛ぶの。そのとき、乙女は聖なる世界の管理人になるのよ。」
ルナファラが、約束、と呟く。私は懇願した。最初で最期の奴隷からのお願いだった。
「歌って、ルナファラ。あの歌を歌って。ルナファラが作った、世界が微笑む歌を歌って。」
ルナファラは私から手を話すと、立ち上がって歩き出した。
歌を、謡ながら。
新しい時代の、母の歌を。