第三十二話
ディノは、湿った暗がりにいる。
とても重い、暗がりだ。
暗黒の重圧は、体の自由を奪っている。眉ひとつ動かせず、だんだん感覚さえもなくなってゆく。
この暗闇の中、どこまでが自分で、どこからが光を失った闇の空間なのか。重力は感覚を侵略し、自分と闇の境をじわじわと消してゆく。
心臓の音だけが聞こえる。どくん、どくんと、温かい血潮を、心室が繊細に押している。
ふと、草の甘美な芳香を感じた。
それはするりと鼻腔から入り込み、肺を満たす。体があるのだと気付くが、何故か自分も匂いの一部なのかと思ってしまう。空になって、空気になって、どこまでも伸びてゆく。
やがて、芳香の向こうに色彩を感じた。それは黒くかすみがかっていて、うまく眼球には捕らえられないものだった。
さわやかな萌黄色。草原だ。すぐにそこがアベドルト平原だとディノには分かった。高い高い上空から、鷹のように見下ろす、自分を育てた大地。
豊かな平原が続いている。
深い緑は、平原の外を表す。中央に向かうにしたがい、緑は黄色がかったものになってくる。
大地が乾き、人が住むには困難になってくる。選ばれし者しか住めぬ土地だが、なんて美しいのだろうか。
木々は無い。乾燥しているからだ。
川も無い。丁度、山脈の中腹であるからだ。
温暖ではない。吹き荒れる風は厳しく冷たいからだ。ただ、なだらかな平原を、薄い草が覆うように生えている。カラカラの土を僅かにむき出しながら、どこまでも広い。
しばらく浮遊していると、瞳に蟻の行列が映った。いいや、この高さだ。蟻の行列のはずがない。ならば、なんだ?
ディノは下降した。少しずつ、定まってゆく視界。落下する心地よさ。だが、穏やかな気持ちは一気に吹き飛ばされた。
蟻の行列ではない、真っ裸の人間だ!
更なる下降。
蟻のような行列をなす人々に、ゆるりと近付く、接近する。
人々の表情まで近付くと、その異常さはより濃く感じられた。ディノはおぞけが走った。
老若男女、皆、裸で泥まみれだった。しかも、泥が汗で剥がれ落ちて、ようやく見える皮膚は、鞭や剣でいたぶられたのだろう、血まみれだ。
汚れきっている。泥と血、そしてムワリとした不潔な体臭が、鼻孔を突いた。
羅列する人々のすぐ側に、鞭を片手に振り回す男たちがいる。隊列を数人で管理しているのだろうか。
男たちは人々とは対照的に、立派な防護服に身を包んでいる。
見たことのないタイプの服装ではあったが、それが軍服であると、ディノはすぐに分かった。
角張った美しい衣服を着て、鞭や剣を振り回すのは軍人しかいない。
…そして、この隊列は、罪人を軍人が歩かせているという生易しいものではないことも。
街ひとつを襲った敵軍が、人々を捕虜にして歩かせているのだろうか…裸で、裸足で、この過酷すぎる大地を。
だが、そんな面倒で役に立たなさそうなことを、この残虐な軍人たちが行うだろうか。
そもそも、この軍人たちが、強襲や戦争のたぐいを行ってきたようにはとても思えない。
列の中に、幼児を大事そうに抱えながらフラフラと歩く老人がいる。
ひとりの軍人が、その老人を、鞭でピシャリと打った。
老人は、幼児を抱き抱えたまま音もなく倒れると、その枯れ木のような体をピクリとも動かさなくなった―――。
…死にやがった…
…死にやがった…
…こんなところで死ぬなんて、ふざけやがって…
瞬間、思念が走るようにディノに伝わった。
ディノは自身の心臓が熱く燃え上がるのを感じた。
だが、その熱は一瞬で風化した。
この思念は、軍人のものではない。軍人はなんとも思っていない。
ディノは思念を辿った。老人を傍らに見る幼児に目がいった。
異様に冷めた目をした幼児は、老人を見下している。
…私を置いて死にやがって…
そうして、すぐさま幼児は歩きだした。まるで何事もなかったかのように、鞭に打たれまいと、その小さな体を揺らして歩く。
ディノは唖然としていた。
あんな子どもが、人の命をゴミのように、死を当たり前に思うなんて、この隊列はなんなんだ。
いったい、なんなんだ。
隊列から、汚れた肉体の臭いと、あらゆる思念が噴出する。それらは天へと昇れず、大地へとへばりつく
目がくらむ。
そねみだ。
後悔だ。
憎悪だ。
妬みだ。
悲しみだ。
憎悪だ。
…狂いそうだ。
人々の暗雲のような感情が、血と泥で出来た彼等の足跡で、大地を塗る。ナメクジの歩みの後のように、湿って残る。舐めるように、進む。
そうしてディノは、ふと気付いた。
ヒュームがいない。
エアドラドの民の三割を占める、ディノやアーシェのようなヒュームがいない。みな、獣人もしくは魔人だ。
そこでようやく、ディノは思い立った。
ディノの思考が記憶と回る。クルクルと、歴史の断片を繰り出す。
「獣魔人は…人として扱われなかった…。」
「そんなもんじゃない。獣以下、石ころ以下だった…。」
誰かに、そう教わった気がする。誰だったろうか。風馬の長老だったか、キリアだったろうか。
そして、アベドルト平原に流れた長い時の中で、確か、こんなことがあった。
風馬の民が、この大地で遊牧と共に鎮魂を行うようになったきっかけである、悲劇。
獣魔人大量虐殺。
遥かの昔、エアドラドは今とは全く違う国質をもっていた。
今では旧王国と呼ばれるその時代は、ヒュームを王、そして国民としており、広大な国家力を保つため、旧王国は古くから獣魔人を奴隷として扱っていたのだ。
約千年前、旧王国最後の王・バルフレアは、国力の低下を大量にいる奴隷たち独特の文化の所為であるとし、無駄な奴隷を排除する「淘汰」を行った。淘汰という言葉はつまり、処刑を意味する。
これは当時、国家よりも資金を持ち始めた商人たちの力を減らすためだったとされる。商人たちの反感を最小に、彼等の財産を奪う。そのためだけに、奴隷たちの命は天秤にかけられた、と。
だが、真実は今では時と言う砂の渦に取り込まれ見ることは不可能だ。なんにせよ、奴隷たちの大量処刑は、理不尽で傲慢な理由の下に始まった。
最初は奴隷の中にいた一部の文化人が処刑の対象となったが、日を追うごとに対象は増え、淘汰の主旨も変化していった。最後には、獣魔人であれば処刑の対象であるという、おぞましい形に。
処刑が虐殺へと変わり、政治は更なる恐怖を持って人々を襲った。国中で名ばかりの処刑が行われたが、特に処刑が行われた場所は次の通りだった。
皇都、シオン。
巨大湖、アルタナ。
火竜山脈。
そして…。
ディノは隊列を見つめた。
まさか、これは過去なのだろうか。
大昔、行われた狂気。この行進は死そのもので、向かう先は処刑台なのだろうか。
意識が朦朧とした。記憶にある、アベドルト平原での虐殺の人数は十万とも二十万とも言われている。何人が死んだ、と歴史で学んだとしても、その命の数が膨大すぎて、残酷だと思えても、心は激しく痛まなかった。
だが、目の前にするこの景色は、まるで現実のようだ。
これは、あの生首たちの記憶なのだろうか。怨念が描く、かつて確かにあったのに、うずもれてしまった時代。
誰も思い起こすことのない情景の中で、彼等は今も苦しんでいる。
誰かを呪い、大地にへばりついて死にながら生きる。
自分が描く悲しみの中で殺され、死に続けている。
なんて絶望的な死なのだろうか。
寒気がする。
どうすればいい?
ここから出るにはどうすればいい?
早く出なければ、この闇が深く心に侵食する。憎悪の深淵に落ちて、きっと出られなくなる。
ディノは焦った。心臓が危機をさっして早鐘のように打つ。だが、肉体という感覚がないディノには、なす術が無い。
このまま、引きづられるのだろうか、この世界に。不安が血管を走り、身体中をくらう。めをつむろうにも、それさえも許されず、画面は繊細に流れてゆく。
ふと、隊列の上空にいたディノの体が加速した。
加速度は一気に高まり、隊列はぐんぐんと後ろへとむかう。まるで、川をそって渡る鳥のように、隊列の先頭へと景色はひきよせられてゆく。
どこまでも続いていくかのように感じたその流れが、瞬間、速度をおとした。壁にぶつかってしまったかのように唐突に景色がとまり、ディノは混乱した。
見覚えがある景色だった。
空中に浮かぶディノの足元に、穴があり、その穴の中に巨大な建物が立ち伸びている。建設されたばかりの白さが眩しかったが、ディノには、それがルナファラ魔霊窟であると、すぐに分かった。
隊列の先頭が穴の中へと、建物を囲む螺旋階段を使い、ゆっくりとおりてゆく。それは一見して、完璧な渦にも、美しく長い蛇にも見えた。
落下は続く。螺旋の中へと下降してゆく。風になった体は、建物を突き抜けていつしか部屋の中にいた。
気付けばディノは立ち尽くしていた。
何処なのかも分からない、広すぎる部屋だ。部屋は、いくつもの丸太のような支柱に支えられて、天も壁も遠い。光源は床に散らばるように設置されたロウソクのみで、頼りなくともる。
泥のような闇の中、異臭がした…。
先程の、隊列の不潔な体臭だけではない、強烈な嫌悪感が込み上げてくる独特のにおい。ディノは悲しいまでに、そのにおいに覚えがあった。
血のにおいだ。
錆びた鉄と、腐った肉を合わせたようなツンとくる芳香は、その部屋に充満していた。
やがて、漆黒に濡れた目が、瞳孔を開いて闇に慣れる。わずかな光をとりこんで、闇に隠れる物質を捕える。
心は然程、動かされなかった。 人が、当然のように死んでいる。
山のように、人が。
乱雑に積み上げられた死体には首はなく、裸のその体は赤黒く染められて、闇との境いさえ失っている。黒と溶けこんで、草木が積み上げられているような気がした。
その姿が意味することを、ディノは感付いていた。この人たちは、『人柱』にされたのだ。
人柱は、能力のある術師や、地位が高い娘をひとり生き埋めにすることで成立するものだ。人柱により、大地の恩恵に対する感謝と畏怖を表現することで、天災からの守護を祈る。
それを、万の人の命とすりかえるなんて。
頭が痛い。
喉が異常に渇いた。
無念が、意識を失わせる。
呆然と、虚無が居座る。
息苦しい。
腹が空いた…。
「どこなのお…」
か細い声がして、ディノは振り返った。
小鳥のさえずりのような、可愛らしい声。鈴の鳴るような、幼く愛しい声。ディノの聴き覚えがある声。
…あぁ、あの子か。
「ないよぉ、どこにもないよぉ…」
部屋の片隅、更なる闇の向こうに、大量の首が山のように積み上げられている。
ゴミでも投げたように放置されたそれらひとつひとつは、よどんだ瞳をあけっぴろにしたまま、各方向を見つめていた。瞳孔は見開き、ピクリとも動かない目は、死の色を横たえて、にぶく光っている。
その首山の裾に、うごめく小さな人影があった。
「ないよ、ないよぉ…」
人影は小さな手を懸命に動かして、何かを探っているようだ。
ディノはゆっくり近付き、気付いた。
その人影には、首が無かった。丸くて大きな傷跡は、肉が剥き出しになり、骨は砕かれて、脂肪は黒ずんでいた。
ディノは無感覚と無感情…ただ唯一の感覚…枯渇と空腹感の中、それを当たり前のように受け入れた。あの子は老人が死んでから、自分の足でここまで歩き、ここで首をおとされたんだ、と。
「ないよぅ、わたしの首がないよぅ…」
形見でも無くしてしまったかのような、狂乱を交えた悲しみの声は、個体から木霊するようにも、方々から聞こえるようにも思えた。
一歩、さらに一歩と近付く。
「どこにいったの…わたしのくび…これじゃない…」
一歩、一歩、
「あたしのくび…これじゃない…これでもないよ…」
…一歩。
「あ、みつけたぁ…」
次の瞬間、首を失った彼女は、目の前にいた。
幼いその血まみれの両手を、ディノに広げていた。
ディノはどんどん無気力になってゆく体を支えられず、膝をつく。もう、動けなかった。
その言葉を聞いてはいけないと分かっているのに。
「やっと、やっと見付けた…」
手が、ディノの頬を掴む。
「…やっと見付けた…。」
「……わたしの…く、…」
『…――光の矢!!』
光の光線が膨張し、破裂する。
鮮明な輝きが熱く部屋を満たす。
ディノは光を見たかと思うと、跳ね飛ばされたかのように落下し、強かに背中を打ち付けた。
「ディノ!ユズちゃん!」
駆け寄る足音に、ディノは重たい頭をゆっくり持ち上げた。…ディノの視界が、ディノを包む世界が、再び鼓動を始める。
「おせぇよ、アーシェ…」
肺にまだなんとも言えぬ奇妙な感覚が残っている。それを吐き出すように咳き込むと、ディノは頭をブルブルと振った。
「嫌な夢みた…」
傍らにユズがいるのを確認すると、命の恩人を見上げた。
「アーシェ、人生最悪の小旅行だったよ…」
「ディノったら…」
アーシェは小さく微笑むと、すぐさま真剣な顔で立ち上がった。
「…魂の楔!」
聖なる紋章の色彩が、アーシェの肉体から放たれ、ディノとユズに降り注ぐ。瞬時に、水に洗い流されるように不快感が消える。
「ん…、あ…アーシェ?」
「大丈夫ですか、ユズちゃん」
朦朧としながらも、ユズが目を開く。
「アーシェ…あの子は?」
「え?ユズちゃん?」
開口一番の声に、アーシェは戸惑った。
「アーシェ、あの子は、どうなったの?」
ユズがすがりつく。だが、
「ユズ、その質問の答えは後からだ!」
ディノが、二人を掴んで一気に駆け出す。途端に、地面がひしゃげた。
《な…ぜ、逃げる…》
地響きのような声。否、怒りの合唱。
《…くびになりましょう…、お前、死ね…死んでください…》
喘えぎがゆっくりと収束する。
《一緒に、なれ、…なろうよ!》
ディノは再び、声の主を見上げた。
無数の首が、黒煙を吐き出しながら、悶絶しながら、泣いている。おとこも、おんなも、年寄りも、こどもめ無関係に、腐敗している。千年も前から、ずっと苦しんでいる。
だが、感情を押さえてディノは言った。
「悪いけど、あんたたちの仲間にはなれない。」
突如として、憤慨が嵐のごとく巻きおこった。轟音が、あたりにひしめく。
《…殺す…、殺してやる…!》
祭り太鼓のように、その言葉が弾け、ぶつかりあう。
《…殺す…、殺してやる…!》
《…殺す…、殺してやる…!》
《…殺す…、殺してやる…!》
《…殺す…、殺してやる…!》
「殺すなら、わたくしを殺しなさい。」
静謐。
唐突に、沈黙が飛散した。
「…だ、れ…?」
ユズが呟く。その呟きは、言葉を出したのがアーシェでもディノでもないことを指し示していた。
凛とした、気品ある麗しい声。
「殺すなら、わたくしを殺すのです。彼等は、旅人。彼等は、未来からの旅人。あなた方が呪う相手はわたくし…」
ディノたちは見た。その白は、ゆらりとはためき、風のように揺らいで浮いていた。
肌が白く、頬は桃のような、絵本に出てきそうな少女。
「我が名はルナファラ。
…あなた方の殺意を、受け入れる者。」