第三話
赤ん坊がいる場所は、安易に見付かった。輝く広間の壁に、たった一枚だけ桑の木で出来た扉がついており、その向こうから、鳴き声が続いているからだ。
ガアプは扉に罠がないか調べつつ、慎重にノブに手をついた。重く、ふるめかしい音を立てて、扉が開く。
瞬間、扉から黒い影が飛び出した。
ガアプは後方に跳躍し、その影をかわす。
影は、ガアプのいた場所に、小さな悲鳴と共に倒れ込んだ。
子供である。
それも二人。幼い双桙が、濡れて揺らめく。白い寝巻きを見に纏う、少年と、少女。あの竜が、盗んできたのか。
ガアプはゆっくりと、二人に手を伸ばした。
「もう大丈夫だ、竜は退治した。」
ガアプが安心させようと言った言葉に、幼子達は、電撃に打たれたような顔をし、それに脅えを含ませ、寄り添う。そして、
「触らないで!」
少女が叫んだのを、少年が口を押さえて止める。
ガアプ達は、唖然として、二人を見た。少女は、少年に口を塞がれているものの、その目つきに、そして、その両瞳の色、赤に、ガアプ達は口で言われるよりも素早く理解した。
竜の、血飲み子。
生け贄として、竜に捧げられながらも、餌となること無く、そればかりか、竜に血を与えられ、育った子供。竜皇国初代皇王ヒルドや、極西の氷の大国ウェハイバルの化石の王ラキューなど、今は亡き過去の英雄の人々の出生のそれ。
珍しい赤い瞳を持ち、竜の英知と魔力を持ち、人々を救い主として導くという。
また、人間の子供を食わず、そればかりか子供に竜族の英知の力を与える事が出来るのは、高い知性と先読みの力を持つ竜と言われている。
だが、それは伝説どころか神話である。先読みの力までも持つ竜は、神竜だけとされているのだから。
だが、神話は目の前に、そしてガアプ達に声を放った。
「貴方が、ガアプ・ロジェ、ですね。」
五才くらいだろう、見た目と全く釣り合わない、知的な少年の声。
「僕達を、どうか導いてください。」
扉の奥から、もう一人の血飲み子の鳴き声がした。
「オルセは、二人を。キリアは赤ん坊を。」
ガアプは指示を出すと踵をかえした。
竜の巨躯から滴った血が、小さな湖川となっている。竜から流れる血は既に無く、首の傷以外、傷口も殆んど確認できない。切られた筈の足は、視覚できる程の速度で再生している。並の竜では無い事は、その治癒力からも分かった。
「お前は、何者だ。」
ガアプの強い問掛けに、竜は苦し気に、しかしはっきりと答える。
「既に知っているだろう。そして、お前は何よりも理解している。」
そう、ガアプは、その騎士団長まで上り積めた知性で、誰よりも状況を理解していた。
眼前で苦しんでいるのは、やはり、神竜。
そして神竜は今まさに自分達に何かを下そうとしている。
「何故、村を偽の火竜を使役してまで、我々を呼んだのです?あの子供達は何なのですか?」
悲痛な声が、ガアプから漏れた。神と対峙しているという事が、ガアプの腰を鎮座させ、剣を下ろさせ、言葉を畏怖の含むものにさせる。
「子供は、餌だよ。人間の愚劣さが凝り固まった、餌。」
竜がその剪断されかけた首をもたげ、紡ぐ。
「……四年前か、子を孕んだ女が二人、山を登ってきた……。女共は二人とも、とても若く美しく、そして悲しみに魂を奪われていた……。」
二人は、さまよいの果てに、この地下にやってきた。
竜は、自分は火竜山脈の竜を奉る神殿を守る尼だと偽り、二人を向かえた。すると二人は、竜にこう訃げた。
私達は贄。神竜は何処にいるのですか、と。
聞くと二人は、山脈の麓、メルン川のほとりの村村に二年ほど前から現れる、源が分からぬ死病を止めるために下された贄だという。
世界を見守る神竜に、腹の子供と共に食われる為にやって来たのだと。
「愚かな事よ。病など我の範疇ではない。我を人は神竜と崇めるが、我は創世の日から息をしていたにすぎん。我は無力よ……。」
無力、その言葉に強い衝撃をガアプは受けていた。
神竜が無力だという話は聞いたことがない。神竜が世界を作り、世界を動かす。それがこの世の定説だというのに。その定説の上に、人間は歴史を生んできたというのに。
「我は無力だよ。」
ガアプの意思を読んだろう。竜がその麗しい瞳孔をガアプに真に向ける。その神々しさに、ガアプはめまいに揺れた。女帝と対峙しても、これほどの高貴さは感じられなかった。
「貴方は、無力ではない。」
ガアプの叫び。
「女共は、死んだ。」
神竜の呟き。
我の言霊で死んだ。
「神竜はここにはいない。」
尼は、二人の腹の大きな妊婦に訃げた。尼には、神竜には、病を止める力など無かったからだ。そればかりか。
「我は、山を降りる事すら、出来ないのだよ。」
ガアプは、神竜の感情の無い言葉に、ただただ立ち尽くすだけであった。神竜の教えは、世界の定説は、弱い人間が作り出した幻想であり、妄想なのか。
「犠たちは、山を降りたのですか?」
答えは分かっていた、だが、ガアプは絶望から逃れる為の、少しの可能性を望んだ。
「……山をさまよい、死んだ。」
ガアプの予測通りの現実。若い娘たちは、重い肉体を引きずるようにさまよい、死んだのだ。
人間達が熱望のままに思う、竜を求めて。
「我は、女共と腹の子の屍を慰めるべく、土人形を使役し、我が元へ運んだ。…骸は、母の生を全うしていた。二人は、赤ん坊を産み落とし、死んでいた。」
失望の末の、希望。
神竜は、無力という罪を償うために、赤ん坊に血を与えたのだ。村に返しても、不幸にも生き残った贄として殺されるか、口減らしで川に流されるだけの命を、自分の僅かな力で、生かそうと思ったのだ。
「あの赤ん坊も、贄なのですか?」
「…山の中央に、放置させられていた十二人の赤ん坊の、唯一の生き残りだ。」
贄という名の、人間の愚劣。
ガアプは、登山の前に立ち寄ったアレ村を思い出した。僅かにとれる農作物と砂金で生活する、村。
竜の被害で、死傷者はなくとも、枯れた井戸と焼けた田畑が横たわる。貧しい農民と、裕福な商人の生活の差が激しい、村。
「王の手、竜皇国騎士団のみ、竜殺しは認められている。裕福な皇都の人間である我々を呼ぶために、竜を使役したのですね。あわよくば、子を皇都に運ぶために。」
「……それほど、簡単な理由ではない。我の命を、竜の血飲み子を、狙うものがいる。」
ガアプの心臓に、氷の矢が刺さる。神竜を殺そうと企てる者が、いる。
「多くの星が、空に瞬く魂が、叫んでおる。我は近い日に殺される、とな。世界が、破滅へと向かおうとしている。お前達の女帝は、だからこそ、お前を生かそうとしておるのだ。お前は、お前の王の意思の下、血飲み子とともに名を捨てる。」
……何を。
「何を、おっしゃっているのです。」
ガアプの跪く体躯が、揺れる。
「その者が、知っている。」
ガアプは、神竜の瞳を指す者を、見た。
「オルセ。」
「ガアプ様、お許し下さい。」
オルセの目から、一筋の涙が流れた。