第二十四話
火をつけられた家畜のふんが、僅かに火をたたえて燃えながら、疲れたアーシェの足を癒す。
「私とルキは、魔法や力を使った事を殆んど覚えていません。ただ、無意識に使って…。」
アーシェは、うつ向きながら続ける。記憶を辿る。
「私とルキは、ビンセントジジ聖王の保護に置かれる事になりました。私は聖園に、ルキは騎士学校に入学しました…」
沈黙。
アーシェは、自身が出そうとしている次の言葉に、緊張していた。伝えるべきか、否か、…その答えは明らかなものだった。
「お父さんとお祖父ちゃんは―…」
迷う、だが。
意を、決する。
「…この国から出ていき、今は行方が知れません」
それは、
それは、彼等の突然の決断だった。
理由は、アーシェもルキも、聖王も分からない。彼等は、誰にも言わずに、忽然と消えたのだ。
かわりに「国を出る事をお許しください」とだけ書かれた手紙が、あった。手紙以外は、なかった。それだけ、だった。
ガアプとオルセは、騎士として名を捨てていた。だから、聖園や騎士学校のある帝都にいる事を、自分達が許さなかったのかもしれない。
また、彼等は彼等の力が足りない事を、しっていた。アーシェとルキを自分達は守れない、だが聖王ならば、守れる。
そしてその聖王に、神竜の事を口にするのだけは避けたかったのかもしれない。それは国の根本的なものを揺るがすことになる。知られる前に、消え去る決意をしたのかも、しれない。
どちらにせよ、彼等に、既に母国の未練はなかったのだろう。
そして、消えた。
アーシェとルキにさえ何もいわず、何ひとつ伝えず、二人は消えてしまった。
さようなら、とさえも、口にせずに。
「…そうか、そんな事が…」
キリアは、かぼそい声でそう呟くと、その引き締まった遊牧民の―細く感じてしまう、だが変わらずに暖かい―腕で、アーシェをかき抱いた。
「大変だったね」
アーシェは、顔を赤らめて、そして涙が落ちぬよう努力をしていた。長い年月が彼女を、キリアの知らぬ間に大人にしていたが、それは寂しい事ではなく、寧ろキリアにとって、なんとも感動的であった。
親として…キリアは、アーシェの全てを、受け入れようとしていた。
だが、次に告げられた言葉には、衝撃を隠せなかった。
「私、月に行きます」
耳を疑い、ゆっくりとアーシェと抱擁から体を離し、目を合わせる。
子どもの頃にはなかった、研ぎたての刃の切っ先のような強い輝きが、その目にはあった。
「世界中を巡り、月に行く方法を探して、私は、月の都ルシファンに行きます」
決意と、強い意思の光。
「私は、月の神殿に行き、必ず、聖なる祈り子から聖人になります」
アーシェは、わずかに震えていた。
「何を言っているんだい?聖人には、帝都の神殿で祈っても、なれるじゃないか」
「どうしても、月で祈りたいの。月でなければ、意味がないの」
即答だった。
確かに、月は特別な場所だ。
かつて存在したという、ドラグノアの対の大地、ドラグフレア。
ドラグフレアは、大戦により、破壊されたという。それ故に、大地の殆んどはなくなった。
大戦で生き残った者達は、自身の愚かさを忘れない為に、自分達の文明の全てを置いて、ドラグノアに降りた。
そして、見上げるだけとなったドラグフレアの欠片の大地を、月の都ルシファンと呼んだ。
だが、だがそれは…昔話だ。ただの、伝説だ。
「…無理だよ、行ける筈が…」
うろたえるキリアに、それまで横で黙って聞いていたディノが口を挟んだ。
「無駄だよ、母さん。俺アーシェに超ムリって言ったけど、全っ然聞かないでやんの。超ガンコ」
ディノは肩をすくめると、アーシェを横目にみた。
やはり、アーシェの気持は少しも揺るがす、その目には凛とした力強さがある。闇夜を照らす、松明のような。
「月には全てがあります…そう、神竜がおっしゃっていました」
ディノが、へっ?と小さく驚きの声をあげた。そんな話は、初耳だった。
「私は、この世界を少しも知りません。あまりにも無知です」
よく通る、透明な声だ。だが、ガラスのような脆さは無い。
そしてそれに含まれる、眩いばかりの宝石のような、熱望、いのち。
「私は月へ行き…全てを知りたい」
その言葉に、突然ディノの中で何かが弾けた。
ディノは、自分の中の何かが、爆発するような不思議な感覚に襲われた。体が燃えるように、頭に一気に血が巡ってゆくかのように―――。
何だ?
この気持ち、何だ?
なんかスッゲー、ドキドキする。
似てる、あの時と似てる。
誰かと剣を交える時の、あの感覚。
武者震いだ…!
「…分かったよ」
キリアがゆっくりと傾いて、アーシェに微笑んだ。告白と決意にに硬直しきっていたアーシェの頭を撫でて、呟いた。
「大きくなったね」
優しく、全てを受け入れてくれる…温もりのある、言葉。
アーシェはついに、せきを切って溢れ出した感情の赴くままに、泣き始めた。
巡り会えた驚きと嬉しさ。そして自身の無謀を、受けとめてくれたという感謝。それらが、吹き出す心の奔流となって、次々と涙に変わってゆく。
アーシェは――唐突に過ぎ去り奪われていったあの日々と同じように――泣いた。
慟哭するアーシェを、キリアもまた涙を流しながら、その腕で包んだ。
一方、ディノは、湧き上がる見えない謎の衝動に、うち震えていた。
戸惑いの中で、ディノの中の何かが今、確かに目覚めようとしていた。