第十九話
月は雲に隠されて、辺りは闇が闇とおり重なり合い、虚ろな夜の植物の匂いをかもしだしている。
その中に、僅かに血の芳香があった。
「…くっ」
オルセは、アーシェとルキを担ぎ逃走する死体を懸命に追う。
森の茂る下り坂を、風を全身で切り裂くように疾駆する。木の葉や枝が、皮膚を弾くのも気にもとめずに。
だが、歯がゆさを感じるほどに、全く距離が縮まらない。
そればかりか、ぐんぐん開いているようだ。無理もない。相手は、操られた死体なのだ。
肉体が操られ、本来ある肉体の運動能力を越え、そればかりか限界を無視して動いているのである。
並大抵の早さではない。操られた死霊が最も敬遠される理由のひとつである。
死霊の割れた頭骸から滴った血が、宙を飛んでオルセの目に入る。
陰もない漆黒では、つんとくる死の独特の臭いだけが頼りであった。
やがて、視界に僅かに星のような明かりをオルセは見た。伸びた葉樹の無数の手の間から、瞬き光る。
街だ。エドガーに向かっているのか。
何故だ?
考える余地は無い。ただ、追うのみか。
オルセは大地を蹴りあげる。
視界が一気に広がる。獣道を切り裂いて、ついに森を出た。そして、信じたくはない現実をみてしまった。
街の入り口。そこに、二体の竜の像の中央に並ぶように、十人はいるだろう死霊が、頭を揺らして立っていた。
一体、何人の街の人間を殺したんだ…!?
二人を担いだ死霊の足が、あらぬ方向に螺子曲がった。
そして無様にくずおれる。慣性のままに、アーシェとルキはまるで人形のように飛ばされ、それを死霊たちががっちりと掴んだ。
しまった!
アーシェとルキを丸太でも運ぶように担いだ死霊達は、二手に分かれて、左右の通りに消えて行く。
左へは、二人を担いだ群れが、路地裏へと。
右は、よりによって、繁華街へと。
オルセは立ち止まり、左右を交互に見た。
…どうする!?
「右へ行け!」
背後から、ガアプの勇ましい声が聞えた。弾かれるように、オルセは右の通りへとひた走る。
そしてガアプは左へと、更なる暗闇へと消えて行った…。
エドガーの街は活気に充ちていた。
通りには人と光が溢れ、歓声とも罵声とも取れる声が飛び交っていた。松明と人の体臭が充満し、絡み合いながら夜空に上っていく。
「さぁ、安いよ!そこの兄さん、この剣はどうだっ!」
「いやいや、そんなものなど玩具だ、飴だ!こちらが最強の剣だよっ!」
商人達は競いながら客寄せをしている。今にも、暴動でも起きそうなほどの熱に、皆浮かされているようだ。
酒場からは、既に喧嘩する声まで歌姫の歌に乗せて、踊るように爆ていた。
音が、光が、人が。
安宿の二階の窓辺で、一人の娼婦が、細くしなやかな腕で、キセルを吹かして何もない夜の虚空を見上げていた。行為を終えた気だるそうな瞳で。
ふと、その瞳が、奇妙なものを見付けた。
「ぁれはぁ、なぁにぃ?」
娼婦がキセルを空につきだした。その先を、娼婦の腰に手を回していた酔っぱらい男がみやる。
「なんだぁ、男の尻でも見付けたかぁ」
冗談まじりの酒くさい息を吐き出して、赤い鼻が雲に月を奪われた暗い空を向けられた。
「…はぁ?」
…そこには、男が産まれてこの方、見たことも聞いたこともないものが、あった。街の、中に。
男は、目をしばたいた。更に重い目をこすって、見つめた。
………山?
「なんだぁ?」
男がほうけた声を出して、女と共に窓から体をのりだした時。突然、悲鳴が夜を切り裂いた。
「し、死霊だぁぁ!!」
絹を切り裂くような悲鳴に、二人は山らしきものを一瞬で忘れ、東を見た。
人がまるで波を描くように次々と逃げて行く。繁華街は川にでもなったかのようだ。
人が人を押し、押しへしあい、潰されながら、我先へと逃げる。
猟気的な、パニック。
その波の端に、ばりばりと複数の死霊が、人間を生きたまま肉体を引き千切り、もて遊ぶように食らっている。
ふいに、死霊達は人間の肉片を体に絡ませながら再び走り出した。
そのつま先に、人々の混乱の渦で怪我をし、足をひきずり地に伏せながらも、懸命に逃げようとする一人の毛纏系の商人がいた。
獲物を狙う死した狂人達の目が光る。
商人は、怪物を目の前にして体をちぢこませ目を瞑った。おしまいだ。
長い毛で覆われた商人震える体躯に、血まみれの手が伸びるーーー。
ズンッ!
商人の耳に、そして街道に重たい音が、響いた。そして、
「早く逃げて下さい!」
商人が目をあけると、そこには一人の青年が立っていた。
先ほどまで商人が売っていた、剣が死霊の背中に塔のように生え、輝いている。
青年の勇気に震え立ち、商人は感謝の言葉を呟きながら、足を引きずり走り出した。それを商人仲間達が介抱する。
青年は−オルセ−は、それをみやると、死霊に向き直った。死霊の口に、潰れかかった眼球があった。そして次の瞬間、果実の粒の如く、噛み砕かれる。
オルセは、切長のかなしげな目でそれをみやると、呟いた。
「すみません」
「斬ります。」
オルセは猛々しく叫ぶと、柄を持つ左手に力を込めた。
肉が裂ける音と骨が断たれる音が剣を共振させたかと思うと、刹那の間もおかず、死霊は切り裂かれた。
二手に分かれた体躯から肉体のあらゆる汚物が爆ぜる――。
それが、火蓋となった。
猛然と死霊が、オルセに突進する。
剣を横に振り切断し、更に心臓を突く。なぎ払う。
死霊がオルセの腕に噛みつく、否、かわす。
後退しつつ死霊の頭をかち割り、瞬間、踏み込んで背後に近付いていた死霊をかわす、首を斬る!
逃げ隠れ、武装し、或いは建物の窓から、人々は、青年の剣さばきを見た。
そして、口をあんぐりと開けた。
人々には、まるで、舞いでも舞っているかのよう見えた。なんて華麗で、残虐な、剣士。
たまらず、窓から娼婦が声をあげた。
「…が、頑張ってぇくださぃ!!」
そのひと声で、人々は怒涛の如く湧き出した。
「がんばれっそこだっ負けるなぁ!」
「右右、左からも来てるぞっ」
「ぎゃーー!後ろっ」
オルセは割れんばかりの応援や歓声さえ聞こえないかのように、冷静に斬り続けてゆく。
敵は、一度切ったとしても、魂が残れないほどに肉体を斬らなければ、胴体や足だけでもオルセに向かってくる。
かわし、蹴り、オルセは剣を振った。
オルセの剣に、次々と死霊は倒れていく。
そして、最後の、ひとり。
オルセは、血に塗みれた剣柄を強く握ると、突き上げるように心臓から喉、後頭部へと一気に切り裂いた!
―死霊が、小さくうめく。―
オルセは無言のまま、剣をひいた。死霊の傷口から血が吹き出し、オルセにかかる。
そして、死霊の体は糸の切れた操り人形のように、ごとんと、石畳に落下した。
風が強いのか、雲は漆黒の炎のように流れている。雲に隠されていた月が、ふいにその肌を露にした。
血しぶきに濡れたオルセと剣が、月光を寂しく反射させるのを、人々はいつしか言葉を忘れて見つめていた。
先ほどまであった割れんばかりの歓声が嘘のように。
最後の一人、死霊が、大量の血を噴き出しながら大地に崩れた時、最高潮に達していた筈の人々の熱気は、見る影もなく消え失せた。
何故なら、死霊が剣で無惨に貫かれた瞬間、人々には、オルセが自分達を救った英雄というよりも、自分達とは全く異質なものに見えたのだ。
石畳の道に転がる死霊は、ぴくりとも動かなくなった為に、すでにただの街の人間の死体に他ならなかった。少なくとも、人々にはそう見えていた。
そして、血だまりの上に立つ、自分達を救った筈の戦士が、まるで残虐で冷徹な、死神のように見えていた。
自分達を救った戦士に対する労りや感謝の言葉が、不思議と喉から出てこない。
まるで海よりも深い、心の奥底に沈んでしまったかのように。それほど非現実に、彼は強すぎた。
オルセもまた、忘れかけていた自身の強さに呆然としていた。
ああ、自分は金の獅子だったのだ、と。
オルセは、自身が残酷に切り捨てた死霊達を見下ろした。黄色く濁った皮膚から除く、醜い茶色の肉が、どんどんすえた鉄の匂いを含んで赤すぎる真紅に染まる。
オルセは思わず、目を背けた。
心臓と肺が、せわしなく空気を欲する。全身が、粘土のように重い。
剣を握ったのは、恐ろしく久しい。
人を切ったのは、何年ぶりだろう。
私は何故こんなにも躊躇なく切れるのだ。何故こんなにも強いんだ。
何故、ガアプ様と、キリアと、子ども達と過ごした日々が頭にちらつくんだろう?
もう戻れない気がするのは何故だ?
ふと、オルセは手を見た。
その手は、血まみれだった。
「…ねぇ死霊ってぇ、どぅいぅ事ぉ?」
窓から乗り出して、娼婦が隣に同じく乗り出す男に尋ねる。
「さぁ、わっかんねー…あ。」
「なぁに?」
途端に、男が青ざめ、窓から一気に離れた。
「逃げるぞ」
「えぇ、だってぇ退治したょ」
娼婦は、頭を揺らして男に抱きついた。なんでぇ帰らないでぇ、としがみつく。男は蒼白のまま、窓の外を指差し、呟いた。
「山なんかじゃ、ない」