第十一話
アベドルト平原。
皇都シオンの真西に位置するこの平原は、横断するのに徒歩で一ヶ月はゆうにかかり、また、星を読むことの出来ない者は迷い死ぬと言われている。
それはまごうことない真実で、紛れもなくアベドルト平原は竜皇国で最も広大な平原である。
遊牧民族風馬が住み、平原を遊牧して一生をおえる彼等にとって平原は庭であり、母体である。
彼等は東の民から総じて、《永遠の旅の人》とも呼ばれている。
平原は、何処までも続き、地平までも緑色だった。
風がディノの額を撫でる。
「風馬…俺の族はさ、元々は旧王国王家の家来だったんだ。暗殺とか、なんだろうな、隠密ってやつ。やってたらしくて。これなんかその時代の武器が元になってるんだ。クナイってな。」
ディノは胸元に下げられた小さな刃を摘むと、アーシェにゆらゆらと揺らして見せる。逆二等辺三角形の細長い刃が太刀魚の腹のようになまめかしく輝いた。
「それは武器ではないのですか」
アーシェの質問にディノは唇の右端をニヤリと軽くあげて刃を唇に当てた。
「これは、こうして使うんだ」
ディノの肋骨が小さく膨らんで、肺から喉へ口の先へ、そして切っ先へと細く長い呼気が触れるーーー。
「笛…」
大気が小さく震えているようだ。
刃と唇の間で揺らめく風が、何処か荒い重低音の旋律となって、草原の彼方へと吸い込まれていく。
「…ん。こんな感じかな。まあ、聞こえるだろ」暫くクナイで音を奏でた後、ディノが小さく呟いた。
「聞こえる?」
「まあまあ、少し座っててよ」
ディノの考えが分からず、アーシェは地面に座した。
草独特の芳香が駆ける子供のような風に連れ添い、アーシェのマントの端を摘んで逃げてゆく。
そのまま暫く、二人は空ばかりを見ていた。
「風馬は、旧王国が倒れた後、平原へ逃れた。王の命令とは言え、暗殺や虐殺も数多く行っていた風馬の長は、罪を忘れないために武器を笛に変えて、鎮魂の音楽を作り、平原を鎮魂の魔法陣を描くように渡り歩いた。それが元で、風馬は音楽と共に旅する遊牧民となった…」
どれほど時間が経ったのか、急にディノがそれまで瞑っていた目を開いた。
キラリと、赤い虹彩が光る。そして再び、今度は力強く何より清く高らかに笛を吹いた。
透き通る閃光のような高音。さっきとは真逆の音。
「来るぞ」
ディノの声と直後に、アーシェはいななきと大地の振動を感じた。それは女の腹部のようななだらかな平原の向こうから始まり、確かにこちらへ向かって来るようだ。
地平に煌めく点が現れたと思うと、それはぐんぐんと大きくなり、一筋の疾風となって二人を横切った。
「きゃあ!」
空を貫く槍のように現れたそれは、金色の短毛を纏った獣であった。
「大丈夫、アーシェ。これは、シンガだ。平原のシンガは風馬が全て調教とかしてて…風馬の足って呼ばれてるけど、どっちかと言うと家族みたいなもん」
ディノはシンガの頭を撫でると、干し肉をやった。うまそうにほふる姿は、いかにも逞しい肉食獣そのものだ。
「初めて拝見します」そう言うと、アーシェはまじまじとシンガを見つめた。
獅子のような顔と体付き、四本の足は毛で覆われている。立派な角が一本、額から伸び、犬歯も長く首もとまである。
「りりしいですね」
「はは。じゃあコイツに乗って集落まで行くぞ」
「え、風馬の、ですか?」
「当たり前だろ!それに親戚から旅の道具貰えば良いしな!」
ディノの言葉にアーシェはディノの考えにピンときた。
「…ディノ」
「知ってる?タダより高いモノはない、アレ馬鹿の造語なんだぜ。」
ディノは弾けるように笑うと、シンガに飛び乗って、すぐさまアーシェに手を差しのべた。