第9話|政略話浮上
噂は、風より早く広がる。
王都から戻った商人が、何気なく言ったのだ。
「公爵閣下、侯爵令嬢と親しくされているとか」
たったそれだけ。
だが十分だった。
屋敷の空気が、微妙に変わる。
家門内での視線、囁き。
好奇と探るような沈黙。
リゼリアは、表情を崩さなかった。
正妻である事実は、揺るがない。
それでも――
胸の奥に、小さな棘が刺さる。
その夜。
執務室ではなく、珍しく応接間にディアスの姿があった。
机の上には、封を切られた手紙。
「……噂を知っているか?」
低い声。問いというより確認。
「ええ。耳に入りました」
「政敵が流したものでしょう。侯爵家との距離を測るための」
「……迷惑をかけたな」
その一言に、わずかに視線が揺れる。
迷惑?
胸が、ちくりと痛む。
「私は公爵夫人です。噂程度で動じません」
言い切る。
言い切ったはずなのに、沈黙が落ちる。
ディアスは、ほんのわずかに眉を寄せた。
「私は、その令嬢とは会っていない」
淡々とした報告のような声音。
だが――
説明する必要のない相手に、説明しているという事実。
「……そうですか」
安堵が、遅れて胸を満たす。
なぜ安堵するのか。
信頼しているはずなのに。
部屋を辞した後、リゼリアはチェリースノーの寝顔を見つめる。
穏やかな呼吸。
小さな温もり。
守れる命。
現世で守れなかった命。
あの時は、何もできなかった。
選ぶことも、守ることも。
だが今は違う。
立場がある。
役目がある。
そして――心がある。
噂を聞いた瞬間、胸がざわめいた。
冷静でいられなかった。
それは母としての不安ではない。
妻としての焦りでもない。
一人の女性としての、嫉妬。
認めた瞬間、胸の奥が静かに震えた。
「……私は」
彼が他の誰かと並ぶ姿を、想像しただけで苦しい。
それはつまり――
私は、あの人を愛している。
疑いではなく、確信だった。
政敵の噂は卑劣だ。
だが――
その噂がなければ、気付けなかったかもしれない。
私は、家族を守りたい。
娘を守りたい。
そして。
あの人の隣に立ち続けたい。
義務ではなく、選んで。
数日後。
来客を前にした応接間。
「侯爵家とのご縁が実れば、王都との均衡もより盤石に――」
遠回しな探り。
ディアスは一度も表情を変えない。
そして、静かに告げた。
「そのような事実はない」
室内のざわめきが止まる。
「私の妻は、リゼリアただ一人だ」
低く、明瞭な声。
誇示でも宣言でもない。
ただ、事実を述べる声音。
「根拠なき噂を政の道具にすることは許さん」
それで十分だった。
誰も続けられない。
噂は、その場で力を失った。
――けれど。
夕刻、廊下の奥で囁きが残る。
「とはいえ奥方様もご心配でしょう」
軽い調子。
その瞬間。
「何を心配する必要がある?」
空気が凍る。
ディアスが、そこに立っていた。
視線を逸らさず、淡々と続ける。
「妻は私を信じている。
そして私は、妻を誇りに思っている」
静かな圧。
言葉は短いのに、重い。
その場の者は深く頭を下げた。
少し離れた柱の陰で、リゼリアは息を呑む。
誇り――
その響きが、胸の奥で温かく広がる。
守られたのではない。
並び立つ存在として、認められた。
その夜。
小さな茶会で、娘が無邪気に声を上げた。
「お母さまとお父さま、なかよしなんだよ!」
大人たちが目を丸くする。
「だってね、お父さま、お母さまのスープぜんぶ食べたもん!」
一瞬の沈黙。
次いで、控えめな笑い。
張りつめていた空気が、やわらぐ。
ディアスがこちらを見る。
その視線は、静かで、揺るがない。
――信じている。
――共にいる。
噂は、風のように去っていった。
残ったのは、確かな温もり。
リゼリアは娘の頭を撫でながら思う。
母として守りたい命がある。
そして――
一人の女性として、隣に立ち続けたい人がいる。
噂が教えてくれた。
私はもう、迷わない。
この人を、愛している。




