第8話|公爵の過去
夜は、ひどく静かだった。
長い廊下に灯る壁燭台の火が、わずかに揺れる。
外は雨上がりの冷たい空気。
窓硝子に残った水滴が、月明かりを滲ませていた。
リゼリアは、まだ灯りの漏れる執務室の前で足を止める。
扉越しに聞こえるのは、紙をめくる乾いた音だけ。
一定の間隔。
感情を削ぎ落としたような、機械じみた音。
そっと扉を叩く。
「……入れ」
低く、短い声。
机の上には治水工事の図面。
被害報告書。
数字が並ぶ紙の端は、強く押さえられたのか、わずかに皺が寄っている。
その脇に置かれたままの夕食は、すでに湯気を失っていた。
「お食事、手をつけていらっしゃらないのですね」
ディアスは顔を上げない。
「空腹ではない」
淡々とした返答。
だが、ペンを握る指先は白くなっている。
リゼリアは机へ歩み寄る。
皿に触れると、ひやりと冷たい。
「以前から、あまり召し上がりませんでしたね」
その言葉に、ペン先が止まる。
静寂。
やがて、椅子の軋む音。
「……必要を感じないだけだ」
視線はまだ書類の上。
だが、その奥には別の景色がある。
「昔、領内で飢饉があった」
ぽつりと落ちる声。
「私は若く、判断を誤った。
備蓄の放出が遅れ、多くを救えなかった」
灯りが、彼の横顔の影を濃くする。
「屋敷の食卓は変わらなかった。
温かな料理も、香りもあった」
ゆっくりと、息を吐く。
「だが外では、子どもが痩せていた」
その一言に、夜がさらに重くなる。
「食は、贅沢だ。
守れぬ者がいる限り、私は口にする資格はない」
それは怒りではない。
自分へ向けた、罰。
リゼリアはすぐに言葉を返さなかった。
ただ、冷えた皿を静かに持ち上げる。
「温め直してまいります」
「……必要ない」
「あります」
穏やかで、揺るがない声。
「領民が食べられるようにすることと、あなたが食べないことは、同じではありません」
ディアスの瞳が、わずかに動く。
リゼリアは続ける。
「今日、教会で聞きました。
『明日もがんばれる』と」
エマの笑顔が、夜の中に浮かぶ。
「温かい食事は、贅沢ではありません。
生きる力です」
皿を再び机に戻す。
「あなたが食べることも、守ることの一つです」
沈黙。
暖炉の火が、小さくはぜる。
やがて、ディアスはゆっくりと皿に手を伸ばした。
指先が、わずかにためらう。
一口。
その動作は、戦場で剣を取るよりも重いように見えた。
「……温かいな」
かすれた声。
それは料理への感想ではなく、忘れかけていた感覚への驚きだった。
「娘は、どうしている?」
唐突な問い。
だが、逃避ではない。
「眠っています。安心した顔で」
その答えに、彼の瞳が柔らぐ。
守れなかった過去。
守るべき今。
娘の存在は、痛みであり――希望だった。
リゼリアは、灯りの下で静かに立つ。
彼の孤独を消すことはできない。
けれど、その隣に立つことはできる。
母として。妻として。
そして、一人の女性としてーー
窓の外では、雲の切れ間から星が覗いていた。
距離はまだ遠い。
だが確かに――
その夜、二人の間にあった沈黙は、少しだけ温度を帯びていた。




