第7話|教会での炊き出し
数日前まで、この空は荒れていた。
叩きつけるような豪雨。
濁流と化した川は堤を越え、畑を飲み込んだ。
麦は泥に伏し、根を張り始めた野菜は腐り、収穫を待つだけだった作物は、無残に流された。
川沿いの土はえぐれ、流木が絡まり、畑は茶色い傷跡を晒している。
石造りの教会の鐘が鳴る朝――
低く、澄んだ音が、濁った大地を包み込む。
その音は、慰めのようにも、祈りのようにも響いていた。
広場には、いつもより多くの人が集まっている。
痩せた母親。
濡れた藁靴のままの男たち。
空腹を我慢する子ども。
皆、口には出さないが、同じ不安を抱えている。
冬は越せるのか。
「火をもう少し弱めて。煮崩れさせないでください」
リゼリアの声は落ち着いている。
今日の炊き出しは、施しではない。
“繋ぐ”ための食事だ。
不足したたんぱく質を補うため、豆を多めに。
体を温める根菜を刻み、塩分はやや控えめに。
大量調理の段取りが、迷いなく進む。
湯気が立ち上る。
それは、まるで冷えた空気に差す光のようだった。
「わあ……!」
明るい声が、重たい空気を切り裂く。
列の前にいた少女――エマ。
くるくるとした栗色の髪に、少し泥の跳ねた外套。
それでも、瞳は晴れた空のように澄んでいる。
「いい匂い! ねえ、これあったかい?」
「あったかいですよ。体がぽかぽかになります」
器を受け取ったエマは、両手で大事そうに抱える。
冷えた指先が、湯気に包まれていく。
一口。
ふう、と息を吹きかけて。
「……おいしい!」
それは、嘘のない声だった。
「これなら、明日もがんばれる!」
その言葉に、周囲の大人たちの目が揺れる。
明日もがんばれる。
それは、豪雨に流されなかった希望。
リゼリアは膝を折り、エマの目線に合わせる。
「たくさん食べてね。体を温めることが、いちばん大事だから」
「うん! 奥さまもちゃんと食べてる?」
思いがけない問い。
「奥さまが元気じゃないと、困るもん」
無邪気で、まっすぐな言葉。
少し離れた柱の陰で、ディアスがその光景を見ていた。
川の氾濫の報告書。
被害の数字。
減収の見込み。
冷たい紙の上でしか見ていなかった現実が、今ーー
目の前にいる。
その小さな背中は、守るべき未来そのものだった。
泥のついた外套の少女。
湯気にほころぶ笑顔。
エマはふとディアスに気づき、首をかしげた。
「ねえ、おじさんも食べる?
すごくおいしいよ」
周囲が、息を呑む。
公爵に向けられる言葉ではない。
だがエマは、ただ純粋に勧めているだけだ。
ディアスは一瞬だけ視線を落とし、そしてーーほんのわずかに目を細めた。
「……今日は、見届けに来ただけだ」
「そっか。でも、あったかいよ?」
無邪気な追撃。
その言葉は、豪雨の後の冷えた心に、静かに染み込んだ。
守るとは、堤を直すことだけではない。
冷えた体を温めること。
折れそうな心を、繋ぐこと。
リゼリアは大鍋を静かにかき混ぜる。
現世で培った経験。
公爵家で得た信頼。
豪雨に打たれても、消えなかった人々の力。
そして、エマの笑顔。
湯気が空へ昇っていく。
きっと、この温もりがあれば。
それは祈りのように、静かに広がっていった。




