第5話|初めての「美味しい」
朝の光が、長いテーブルの上を静かに滑っていた。
銀器が淡く反射し、白磁の器の縁にやわらかな影を落とす。
その中央に置かれた小鉢から、ほのかな湯気が立ちのぼっていた。
出汁の香り。
強くはない。けれど、確かに届く。
ディアスは席に着くと、しばらく何も言わなかった。
指先が、スプーンの柄に触れる。
ほんの一瞬の静止。
それから、持ち上げる。
リゼリアは視線を落としたまま、呼吸を整える。
見つめすぎない。
祈らない。
ただ、そこにある。
スプーンが口元へ運ばれる。
喉が、静かに動いた。
置かれた音は、昨日よりも軽い。
もう一口。
今度は迷いがない。
器の中身が、ゆっくりと減っていく。
チェリースノーは両手を膝にのせ、じっと父を見つめていた。
声を出さないよう、唇をきゅっと結んでいる。
三口目。
四口目。
白磁の底が、少しずつ覗く。
やがて――
器が空になった。
小さな音を立てて、スプーンが皿に触れる。
静寂。
朝の光だけが、変わらずそこにある。
「……悪くない」
低い声。
前と同じ言葉。
けれど今日は、そこで終わらなかった。
ディアスは器を見つめたまま、わずかに目を細める。
「……温かいな」
その声音は、ほんの少し柔らいでいた。
チェリースノーが、ぱっと顔を上げる。
「おいしい?」
無垢な問い。
ディアスはゆっくりと娘に視線を向ける。
否定はしない。
代わりに、もう一度スプーンを手に取った。
何も残っていない器を、確かめるように。
そして、短く息を吐く。
「……美味い」
はっきりとした一言。
それは誰に向けたものでもなく、けれど確かに、この場に落ちた。
チェリースノーが、嬉しそうに小さく跳ねる。
「やっぱり!」
ディアスの口元が、ほんのわずかに緩む。
笑う、というほどではない。
けれど、確かにそこにあった。
その表情を見た瞬間。
リゼリアの胸に、遠い記憶が触れる。
冷たい空気。
握れなかった手。
届かなかった「大丈夫」。
あの時は、守れなかった。
けれど――
今、目の前には温もりがある。
湯気の向こうで、娘が笑い、公爵が静かに席に座っている。
指先が、テーブルの縁をそっとなぞる。
震えていない。
料理は、奇跡ではない。
けれど。
一皿が、誰かの朝を支え、
誰かの心を少しだけほどくことがある。
それを、今、確かに知った。
ディアスは椅子から立ち上がる前、ほんの一瞬だけリゼリアを見る。
何も言わない。
けれどその視線は、昨日よりも確かに長い。
そして、わずかに頷いた。
それだけで、十分だった。
朝の光が、三人を包む。
静かで、確かな幸福が、そこにあった。
ディアスは立ち去り際、何気ない仕草で娘の頭に手を置く。
ほんの一瞬、軽く撫でる。
「……冷めないうちに食べろ」
ぶっきらぼうな声。
けれどその掌は、確かにやわらかかった。
リゼリアはその光景を見つめながら、胸の奥でそっと微笑む。
――今度は、守れる。




