第4話|胃袋事件
その日、執務室から重い物音が響いた。
書類が床に散らばり、インク壺が倒れ、黒い染みが広がる。
床に倒れていたのは、レヴァンティア公爵であるディアスだった。
駆け寄ったカイルの顔色が変わる。
「旦那様!」
すぐに医師が呼ばれ、診断は静かに告げられた。
過労と栄養不足。
「……栄養不足、ですか」
カイルの声は低く沈む。
豪奢な食卓。
完璧な献立。
最高の料理人。
それでも、公爵は食べていなかった。
形式的に口をつけるだけ。
皿はほとんど手つかずのまま下げられていた。
厨房に重い空気が落ちる。
料理長グレゴールは、白い調理台に大きな手を置き、俯いた。
「……味が悪いとは言わせぬ」
その声は低く、誇りを守るように硬い。
だが、わずかに震えていた。
カイルはしばし黙り込み、やがて決意する。
「リゼリア様に、ご相談を」
カイルから事情を聞いたリゼリアは、目を伏せ、ゆっくりと息を吸った。
責めない。
慌てない。
まず、考える。
厨房に立ち、紙に静かに献立を書き出す。
濃厚なソースは避ける。
油は控えめに。
胃に負担をかけない柔らかい食材。
けれど、味は淡すぎない。
食べる意欲は“香り”から生まれる。
小鍋に出汁を張ると、やさしい湯気が立ちのぼる。
その匂いに、料理人たちの視線が自然と集まる。
「量は……少なめで」
グレゴールが眉をひそめる。
「それでは栄養が――」
「最初は、ひと口でいいのです」
リゼリアの声は穏やかだが、芯がある。
「食べられない人に、完璧な一皿は重すぎます」
給食室から運ばれた給食を前に、ランチルームで泣いていた子どもの姿が、脳裏をよぎる。
無理に食べさせれば、もっと遠ざかる。
まずは“食べられた”という感覚。
そこから始めるのだ。
夜。
寝台に半身を起こしたディアスは、青白い顔をしていた。
以前よりも、ほんの少し頬が痩せて見える。
「……また薬か」
低く掠れた声。
「いえ、食事です」
湯気が、ほのかに甘い香りを運ぶ。
リゼリアは、器をそっと持ち上げた。
白磁の縁に指を添え、もう一方の手でスプーンを取る。
静かに、ほんの少しだけ距離を詰める。
「……」
ディアスの視線が、スプーンに落ちる。
リゼリアは穏やかな声で言った。
「ひと口だけ。温かいうちに」
そのまま、そっと差し出す。
だが次の瞬間。
「私は子どもではない」
低く、かすれた声。
意地を張るように、視線を逸らす。
その横顔は頑なだが、どこか疲れている。
スプーンを持つリゼリアの手が、ほんのわずかに止まる。
一瞬の沈黙。
それから、ふっと柔らかく微笑んだ。
「ええ。存じています」
責めない。からかわない。
「ですが、今日は――わたくしに任せていただけませんか?」
声は静かで、あくまで穏やか。
押しつけではない、お願い。
ディアスは眉を寄せたまま、しばらく黙り込む。
部屋の隅で、カイルが息を詰める。
やがてーー
観念したように、小さく息を吐いた。
「……ひと口だけだ」
その言葉とともに、わずかに口を開く。
リゼリアはゆっくりと、慎重にスプーンを口に運ぶ。
触れない距離。
急がない動き。
喉が動く。
確かに、飲み込んだ。
部屋の隅で、カイルが息を止める。
料理長が壁に背を預け、拳を握り締めている。
静寂。
時計の針の音だけが、やけに大きく響く。
やがてディアスは、小さく息を吐いた。
そして――自らスプーンを取る。
ゆっくりと口に運び――
今度は迷いなく、喉が動く。
その瞬間、カイルの喉がごくりと鳴る。
料理長の拳が、わずかにほどける。
ディアスは目を閉じ、味を確かめるように沈黙する。
数秒。
やがて、低く。
「……悪くない」
それは短いが、確かな言葉。
そして、視線を逸らしたまま続ける。
「もう一口だけ、くれ」
その声は、先ほどより少し柔らかかった。
リゼリアの胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
ゆっくり、器を差し出す。
少しずつ。
慎重に。
確かめるように。
器は、静かに空になった。
扉の隙間から、小さな影が飛び出す。
「おとうさま!」
チェリースノーが駆け寄り、勢いよく抱きつく。
「たべられたの!?すごい!」
無邪気な声。
ディアスは驚き、わずかに目を見開く。
そして、ほんのわずかに笑う。
その光景に、リゼリアの胸が熱くなる。
――前世で守れなかった、小さな命。
あの時、もっと手を伸ばせたのではないか。
弱った姿のディアスが、その記憶と重なった。
だからこそ。
今度こそ、守りたい。
気づけば、彼女も半歩近づいていた。
「……二人とも」
低く、けれど穏やかな声。
ディアスはゆっくりと腕を伸ばす。
強くはない。
けれど確かな力で。
チェリースノーとリゼリアを、そっと抱き寄せる。
三人の距離が、なくなった。
胸板越しに伝わる鼓動。
生きている温度。
チェリースノーが、くすくすと笑う。
リゼリアはそのぬくもりを受け止めながら、静かに目を閉じた。
――ひとりではない。
これからは、三人で。
胃袋から始まった小さな事件は、家族の距離を、ほんの少しだけ縮めたのだった。
翌朝。
薄い朝日が、寝室のカーテン越しに差し込む。
寝台に身を起こしたディアスは、わずかに視線を落とした。
控えめに控えるカイルへ、低く告げる。
「……朝も、少しなら」
短い言葉。
だが、自分からの申し出だった。
カイルは一瞬、言葉を失う。
そして、静かに頭を下げた。
「かしこまりました」
その声は、昨日よりも確かに軽い。
厨房。
朝の支度が始まる中、リゼリアは静かに指示を出していた。
そこへ、重い足音でグレゴールが近付いてきた。
しばらく何も言わず、彼は立ち尽くす。
やがてーー
深く、ゆっくりと頭を下げた。
「……礼を言う」
短く、不器用な言葉。
誇り高い料理人が、真正面から頭を下げている。
リゼリアは、柔らかく首を振った。
「公爵様が、召し上がられたのは――あなたの出汁があったからです」
グレゴールは顔を上げる。
その目に、わずかな光が戻る。
「……今度は、共に考えよう」
それは、対等の申し出だった。
リゼリアは静かに微笑む。
「ええ。喜んで」
湯気が、やわらかく立ちのぼる。
胃袋から始まった小さな事件は、公爵家の空気を、確かに変えはじめていた。




