第三章:再会の予兆
六月の梅雨が明けると、地元の街は湿り気を帯びた濃い緑の匂いに包まれた。
看護実習も中盤に差し掛かり、私は日々の激務に追われながらも、どこか感情を麻痺
させる術を覚え始めていた。
ある週末、久しぶりに実家に顔を出すと、父は居間のソファで新聞を広げていた。
台所から漂う夕飯の支度の匂いが、ひどく遠い世界の出来事のように感じられる。
「おかえり。実習の方はどうなんだ、順調か?」
「……ええ。なんとかやってるよ、お父さん」
父は眼鏡の端を指で押し上げ、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、あいつ……東京の彼は、今年の夏休みに帰ってくるらしいぞ」
その瞬間、持っていた湯呑みが微かに震え、茶柱が波紋に消えた。
父にとっては、単なる幼馴染の近況報告に過ぎないのだろう。
けれど、私にとっては、平穏を装っていた日常に突き立てられた、鋭い楔だった。
「……そうなの。忙しいって聞いてたけど」
「お父さんと電話で話した時は、少し疲れた声をしてたな。たまにはこっちの空気を
吸わせろって言っておいたよ。お前からも、連絡してやってるんだろ?」
父の無邪気な問いに、私は曖昧な微笑みを返すことしかできなかった。
連絡はしている。けれど、それは父が想像するような健全な友情などではない。
その夜、私は直哉と一緒に、地元の静かな河川敷を歩いていた。
夏の虫が鳴き始め、夜風が火照った肌に心地よい。
直哉は、私の歩幅に合わせてゆっくりと歩きながら、将来の夢を語っていた。
「地元の大手メーカーに内定をもらえそうなんだ。そうすれば、ずっと君の傍に居ら
れるし、休みの日には一緒に……」
彼の言葉を聞きながら、私は、彼の横顔に「彼」の面影を探している自分に絶望した。
直哉が語る幸せな未来図が、まるで自分を縛り付ける檻の設計図のように聞こえる。
「直哉くんは、どうしてそんなに私に優しくしてくれるの?」
不意に漏れた私の問いに、直哉は立ち止まり、真っ直ぐに私を見つめた。
「好きだからだよ。他に理由なんて必要かな」
あまりにも真っ当で、濁りのない答え。
私はその光に目を細め、胸の奥に澱んでいるドロドロとした感情を隠すように笑った。
「……ありがとう。嬉しいよ」
心にもない言葉を吐くたび、私の内側では、あの三月の夜の雨が降り続く。
彼の乱暴な抱擁と、耳元で囁かれた呪いのような愛の言葉。
直哉の清らかな愛では、その雨を止めることはできないのだ。
一方、東京。
彼は冷房の効きすぎた自室で、実家から届いた父の不在着信を眺めていた。
横では、シャワーを浴び終えた麻里が、タオルで髪を拭きながら彼の背中に腕を回す。
「またお父様から? 夏休みくらい、一緒にシンガポールへ行こうって言ったじゃない」
「悪い。今年は、一度地元に顔を出さないといけないんだ」
「……あの幼馴染の子に、会いに行くの?」
麻里の声に、氷のような冷ややかさが混じった。
彼は視線を落とし、机の上に置かれた古いデジタルカメラを手に取った。
そこには、高校の卒業式の日、校門の前でぎこちなく笑う自分と、彼女の姿が残って
いる。
「会わないよ。ただ、親父の顔を見に行くだけだ」
自分でも驚くほど、滑らかな嘘が出た。
心の中では、彼女の住むアパートの部屋番号を、今も鮮明に反芻しているというのに。
都会の喧騒の中で、彼は麻里という贅沢な孤独を飼いならしながら、心はすでに、あの閉塞感に満ちた地方都市へと飛んでいた。
「……嘘つき」
麻里が低く呟き、彼の背中に爪を立てた。
痛みさえも、彼にとっては、彼女への募る想いを紛らわせるための刺激でしかなかった。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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