第二章:深夜の境界線
受話器越しに聞こえる彼の吐息は、雨を含んだあの夜の風を思い出させた。
私は熱に浮かされたまま、隣の部屋で眠る「日常」に怯えるように、布団を被る。
このアパートには、時折、直哉が泊まりに来る。
彼は私の体調を案じ、キッチンで不慣れな手つきでお粥を作ってくれるような男だ。
けれど、その献身的な優しさが、今の私には鋭利な刃物のように感じられてしまう。
彼が私を愛せば愛すほど、私の内側にある空洞が、黒々と口を開けていくのだ。
「……ねえ、その隣にいるのは誰?」
私は、自分の声が醜く歪んでいるのを自覚しながら問いかけた。
「インターン先の先輩だよ。お前が気にするようなことじゃない」
「気にしてるわけじゃない。ただ、随分と遠い世界に行ったんだなと思って」
「遠くへ行ったのは、お前も同じだろ。その男と、結婚するつもりなんだって?」
彼の声に、隠しきれない棘が混じる。
私は、彼が私の現状を知っていることに驚き、同時に歪んだ悦びを覚えた。
お互いに、別の誰かの体温で夜を凌いでいる。
その事実を確認し合うことでしか、私たちは繋がることができない。
私たちが今、それぞれの恋人と紡いでいる時間は、どこまでいっても「代用品」に過
ぎないことを、私たちは残酷なほど理解していた。
翌朝、熱が下がらないまま、私は直哉が運んできたトレーを眺めていた。
彼は私の額に手を当て、慈しむような眼差しで私を見つめる。
「少しは楽になった? 今日は学校、休んだほうがいい」
「……うん。ごめんね、直哉くん。せっかくの休みだったのに」
「いいよ。君の傍にいられるなら、それだけで嬉しいから」
直哉の指先が、私の頬を優しく撫でる。
私は反射的に、その手から逃げるように顔を背けてしまった。
彼の指先は清潔で、温かく、そしてあまりにも「正しい」。
あの夜、私の鎖骨を噛みちぎろうとした彼の、荒々しく湿った熱とは正反対だった。
直哉を傷つけたくないと思う心は嘘ではない。
けれど、彼に抱かれるたびに、私は「ここに居ない誰か」を身代わりにしている。
そんな背徳感が、私の精神を少しずつ磨耗させていく。
「何か、怒ってる?」
直哉が不安そうに首を傾げた。
「ううん、何でもない。ただ、少し頭がぼんやりして」
私は嘘を重ねる。
四月の嘘は、五月の霧雨に溶けて、より深く私の肺に沈着していった。
一方、東京の彼は、麻里が用意した都心のバーのカウンターに座っていた。
グラスの中で溶けていく丸い氷が、都会の夜景を逆さまに映し出している。
麻里は彼の腕に指を絡め、耳元で甘い声を囁いた。
「さっきの電話、誰だったの? あんな顔をするあなた、初めて見たわ」
「……ただの、幼馴染だ」
「嘘ね。幼馴染にあんな、切羽詰まった声を出したりしない」
麻里の指摘は、鋭利なピンで昆虫を固定するように、彼の急所を射抜いた。
彼女は彼の能力を高く評価し、その将来性を愛している。
けれど、彼が時折見せる「地方都市の湿り気」だけは、激しく嫌悪していた。
彼は麻里の唇を受け入れながら、閉じた瞼の裏で、看護科の重い教科書を抱えて歩く
彼女の、細い後ろ姿を追いかけていた。
「もういいだろ。俺たちは、今を楽しめばいい」
「そうね。過去なんて、ただのゴミだもの」
二人は空虚な同意を交わし、より深く身体を密着させる。
愛しているわけではない。
ただ、心の奥底にある、消えない「あの夜」の痛みを麻痺させるために、目の前の
異性の肉体が必要なだけだった。
お互いに恋人がいるという事実は、もはや二人を繋ぐための、歪な鎖となっていた。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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