第一章:剥離する日常
五月の連休が過ぎると、地元の空気は急速に湿り気を帯び、重く澱み始めた。
看護学生としての初めての実習は、私の想像を遥かに超えて過酷なものだった。
真っ白なナース服に身を包み、清潔な廊下を歩くたび、自分の内側にある「あの夜」
の記憶が、不浄な泥のように重く感じられる。
患者のバイタルサインを測り、記録し、笑顔を貼り付けて立ち振る舞う。
その全ての動作が、記号的な作業に成り下がっていた。
「看護師は、患者の心に寄り添わなければならない」
教員の言葉が頭をよぎるたび、私はひどく空虚な気持ちになる。
自分の心さえ、どこに置き去りにしてきたか分からない人間に、他人の痛みが分かるはずもない。
今の恋人である直哉とは、週に一度、実習帰りのファミレスで会うのが常
だった。
彼は私より二つ年上の、工学部の四年生。真面目で、安定していて、私の将来を案じてくれる善良な男だ。
けれど、向かい合って座る彼の声が、時折、遠い異国の言葉のように聞こえてしまう。
「疲れてるんだね。無理しちゃダメだよ。……卒業したら、結婚も考えようって」
彼が差し出した温かな言葉が、私の皮膚を滑り落ちていく。結婚。それはこの街で生
き、この街で老いていくための、最も安全な乗車券だ。
私は、彼の視線から逃れるように、氷の溶けきったグラスを見つめた。
その頃、東京の彼は、六本木のオフィスビルの一角で、眩暈がするような
情報量と格闘していた。
情報大学の一年生とはいえ、特待生としてIT企業での長期インターンに参加している彼は、すでに学生という枠組みから踏み出そうとしている。
深夜、オフィスを出ると、冷たいコンクリートの匂いが鼻を突いた。
隣を歩くのは、同じインターン先の女性、麻里。
都会的な洗練を身に纏い、彼の知性に強く惹かれていることを隠さない。
彼女は、彼が地元の幼馴染と今も連絡を取り合っていることを、古い物語の執着のように冷笑していた。
「いつまで、その田舎の幻想に縛られているの? あなたはもう、こっち側の人間よ」
麻里に肩を寄せられ、彼は否定も肯定もしなかった。彼女の指が、自分のネクタイを
弄る感覚を、他人事のように眺めていた。
彼の中に居座り続けているのは、あの夜、自分の腕の中で泣き叫んでいた少女の体温
だ。どれだけ高層ビルの最上階に登っても、その足元には、あの湿った土の匂いがする
街が、執拗に影を落としている。
彼はポケットの中でスマートフォンを握りしめた。
送るはずのないメッセージ。
『看護実習、始まったんだろ。無理してないか』
打ち込んでは消し、打ち込んでは消す。その無意味な反復だけが、彼が自分を繋ぎ止
めるための唯一の祈りだった。
週末、実習の疲れで熱を出した私は、アパートのベッドで横になっていた。
カーテンを閉め切った暗い部屋で、スマートフォンの光だけが鋭く目を刺す。
ふいに届いた通知音に、心臓が跳ねた。直哉からの心配するメッセージではない。
それは、SNSにアップされた、彼の新しい投稿だった。
高級そうなレストランで、麻里と並んでグラスを掲げる写真。
「新しいプロジェクトの成功。最高のパートナーと共に」
そのキャプションを読んだ瞬間、私の胃の奥が熱く焼けるような不快感に襲われた。
上手くいかない自分と、軽やかに進んでいく彼。
彼が東京を選んだのは、あの夜の私を捨てるためだったのではないか。
そんな疑念が、毒の霧のように部屋に満ちていく。
気づけば、私は震える指で、彼にダイレクトメッセージを送りつけていた。
「おめでとう。東京は、楽しそうだね」
数秒後。既読がつく。
画面の向こうで、彼が息を呑む音が聞こえたような気がした。
不意に、スマートフォンのバイブレーションが鳴り響く。
チャットではなく、通話だった。
半年の空白を切り裂いて、彼の声が、私の鼓膜を震わせる。
「……起きてたのか」
低くて、少し掠れた、私の大好きなあの声。
その一言だけで、私の築き上げてきた嘘の日常が、一気に剥がれ落ちていった。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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