序章:四月の嘘、三月の記憶
窓外に広がるのは、四月の薄明るい、けれどどこか拒絶を感じさせる夕闇だった。
看護学部の講義を終え、ワンルームの自室に戻ると、部屋には冷え切った空気だけが
澱んでいた。
新しいナースシューズが擦れた踵の痛みが、今の私に残された数少ない実感だ。
机の上に放り出したスマートフォンが、短く震える。画面に浮き出た恋人の名前を一瞥し、私は深い溜息とともに、それを裏返した。
彼からの連絡を無視するのは、今週で三度目になる。
今の私には、彼の健全な愛情を正面から受け止めるだけの余白がない。
代わりに脳裏を支配するのは、剥がれ落ちた瘡蓋のような、あの三月の記憶だ。
街全体が濡れ、湿った重い風が吹き抜けていた、高校卒業の夜の情景。
「……まだ、あそこに置いてきたままなんだ」
独り言は、壁に吸い込まれて消えた。
あの日、私は確かに彼と愛を確かめ合ったはずだった。
けれど、その行為は絆を深めるためではなく、決定的な断絶を互いの肉体に刻印するための儀式だったのだ。
地元の大学へ進み、土地の重力に縛られる私と、東京の情報大学へと翼を広げる彼。
私たちは、結ばれる瞬間に、永遠に離れることを誓い合った。
それなのに、東京の華やかな喧騒の中で、見知らぬ誰かと笑う彼のSNSを見るたびに、私の心はあの雨の夜へと引き戻される。
現在の恋人の隣で感じる孤独よりも、彼と過ごした絶望的な抱擁の方が、今の私にとっては残酷なほどに生々しく、真実だった。
指先が、無意識に腕をさする。
そこには、もう彼の体温など残っていないというのに。
その夜、私たちは街の境界線にある古いビジネスホテルにいた。
三月の雨は氷のように冷たく、制服の肩を重く湿らせていた。
フロントを通る時、足元の絨毯が水を吸って、ぐじゅりと嫌な音を立てたのを覚えている。
部屋に入り、狭いツインのベッドが並ぶ空間に閉じ込められた瞬間、私たちはようやく息を吐いた。
沈黙を破ったのは、彼がバッグを床に落とす音だった。
「……本当に、行っちゃうんだね」
私の声は、自分でも驚くほど乾いていた。
彼は窓の外、オレンジ色の街灯に照らされた雨粒を見つめたまま、低く答えた。
「ああ。明後日の新幹線だ」
「東京、遠いよ。きっと、私のことなんてすぐに忘れちゃうくらい」
「忘れるわけないだろ。……お前こそ、地元で新しい男を作るんだろう?」
そんな子供じみた牽制が、たまらなく愛おしく、そして苦しかった。
私たちは幼い頃からずっと、互いの家庭事情も、好きな食べ物も、父に怒られた時の隠れ場所も共有してきた。
けれど、「好きだ」という三文字だけは、共有する。
ことを禁じてきた。
それを口にした瞬間に、この心地よい腐れ縁が壊れ、二度と引き返せない場所へ連れて行かれることを知っていたから。
彼はゆっくりと振り返り、私の濡れた髪に触れた。
その指先が震えていることに気づいた時、私の理性の糸が、音を立てて千切れた。
縋り付くような抱擁だった。
互いの唇を探し当て、舌が絡み合うたびに、不快だった濡れた衣服の重みが熱へと変
わっていく。
硬いベッドの上に押し倒されると、使い古されたリネンの糊の匂いと、彼の微かな汗の匂いが混ざり合って鼻腔を突いた。
「ねえ、痕をつけて。消えないくらい、強く」
私は彼の耳元で、自分でも聞いたことのないような声で懇願した。
彼は応える代わりに、私の鎖骨に深く歯を立てた。
痛みはすぐに痺れるような快感へと融け、私たちはむさぼるように互いの肌を貪った。
シーツの海の中で、私たちは一つになった。
それは看護学科で習う解剖学的な接触ではなく、魂の欠片を削り合って、足りない部
分を埋め立てるような、暴力的なまでの合一だった。
「……好きだよ」
彼が吐き出したその言葉は、愛の告白というよりは、呪詛に近かった。
朝が来れば、彼は都会の雑踏へと消え、私は静かなこの街で「普通の幸せ」を演じる日々に戻る。
この夜の熱狂は、明日からの私たちを救うものではなく、一生涯、他の誰を愛しても満たされない空洞を胸に空けるためのものだったのだ。
夜明けの光がカーテンの隙間から差し込む頃、私たちは互いに背を向けて服を着た。
昨夜の濃密な空気は嘘のように消え、部屋にはただ、若すぎた二人の諦念だけが漂っ
ていた。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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