第二話「お役所へ」
真っ暗闇の中、車のエンジン音が低く唸っている。
それに混じって、どこかから聞こえてくるすすり泣き。
ガタガタと揺れる車体のせいで、隣に座っている誰かの肩に何度もぶつかった。
(……五回目。たぶん、男だ)
意味もなく、その回数を数えていた。
ぶつかるたびに感じるのは、筋肉質な硬さ。柔らかさの欠片もない。
こんなどうでもいい推測が、今のボクの唯一の“暇つぶし”だった。
むしろ、こんなふうに中途半端に意識を保たされるくらいなら、無理やりでも眠らせてほしかった。
これから向かう先にある“絶望”を、ほんの少しでも遠ざけられたかもしれないのに。
そんな取り留めのない思考に沈んでいたとき、不意に車が減速し、重いブレーキ音とともに止まった。
スライドドアが開く音。
外から差し込む気配とともに、ドタドタと足音が近づいてくる。
どうやら何人かが新たに乗ってきたようだ――けど、アイマスクで視界は相変わらず黒一色のまま。
何が起きているのか、正確にはわからない。
けれど、誰かが車から降ろされていることだけは、なんとなく察せられた。
そして次の瞬間、車内の空気が一気に張りつめる。
「いやだっ! 死にたくないっ! 母さん! 助けてっ、母さんッ!」
泣き叫ぶ若い男の声が響き渡る。
女々しい、と切り捨てることもできるけど――
その声を遮るように飛び交う怒号と罵声。
「黙れっ!」
一喝。
それきり、男の声は聞こえなくなった。
きっと外に連れ出されたんだろう。
ただ外に出ただけなら、まだマシだけど、それすら確証が持てないのが、今の現実。
「おいっ、あんまり手間かけんな。さっさと起きろ」
ぶっきらぼうな声とともに、腕を乱暴に掴まれる。
すぐに体が引き起こされ、立たされる。
一瞬、相手の腕がビクッと震えた気がしたけど、すぐにその手は離れ、ボクは無理やり車の外へと引きずり出された。
アイマスクが外され、白昼の光が目を焼く。
瞬間、見えた光景に、思わず呟いた。
「……驚いた」
ちっぽけな感想だった。
そこに広がる景色が、信じられなかった。
ボクが育った寂れた田舎とは比べものにならない。
目の前には、アスファルトの打ちっぱなしの道路、その先に建つ三階建ての建物。
けれど、その建物は、あちこちがひび割れ、窓ガラスはほとんど砕け落ちていた。
大きな穴が空き、内部が丸見えになっている。
かろうじて「お役所」としての形は残っている。
でも、それはボクの知っている“現実”とはあまりにかけ離れていた。
周囲も同じだ。
まるで津波か地震、あるいは火災でも経験したあとのように、瓦礫まみれの荒廃した景色が広がっていた。
(ここが、探索区域……)
呟きながら、しっかりとその現実を見据える。
そのとき、最後の一人が車から引きずり出され、
続いて、屈強な男たち――探検家たちが車外に現れた。
バタン、と扉が重く閉まり、車は無言のまま走り去っていった。
男たちの案内で、ボクたちは建物の中へと向かう。
三階に通されて目にしたのは、屋根のない部屋だった。
壁には無数の穴。
そこから乾いた風が吹き込んでくる。
空調なんてあるわけがない。
けど、その風が、車内の熱気で火照った体を冷ましてくれたのは、ちょっとした救いだった。
(これで景色が良ければ、冗談で済ませられたのに)
そんなことをぼんやりと考えていた。
でも、それは逃避じゃない。
目の前にあるものを見ることだけが、今のボクを保ってくれる手段だった。
部屋にはボクを含めて十人ほどが集められていた。
数人を除いて、みんな絶望的な顔をしている。
この先に待ち受けている運命を考えるだけで、心が重くなる。
そんなとき、違う足音が近づいてきた。
扉の前で止まり、重たい音を立てて開く。
「ようこそ、ルーキーども。クソったれな地獄でのお役所勤めだ。五年間、生き残れるよう努力しな」
ダークグレーの軍服に身を包んだ女が現れた。
社交辞令の笑みひとつ見せず、冷たい声を部屋に響いた。