静寂のシグナル
中間テストが終わった教室は、妙に浮ついた空気に包まれていた。みんなの声が少しだけ大きい。普段は真面目そうに見えるクラスメートたちも、どこかほっとした表情で、スマホを見たり、友達と談笑したりしている。
けれど、僕——木嶋翔太は、そういう流れには乗らない。
「……ふぅ」
小さく息を吐いて、鞄から本を取り出す。今日の読書は海外ミステリー。古典系。地味だけど、こういうのがいい。読みながら、自分の周囲に透明な壁を作って、世間のノイズを遮断する。
「隠キャっていうのは、そういうものだろ」
僕は心の中でつぶやく。
静けさは僕の居場所だ。他人と無理に会話せず、そっと趣味の世界に沈む。それが至福の時間。
——だけど。
気配を感じる。視界の端に、あの存在がいた。
西堀茜。
彼女もまた、教室の喧騒からは浮いている。周囲に溶け込む気配がない。ロングの黒髪を落ち着いた仕草で耳にかけ、眼鏡の奥の目を細めながら、文庫本を読んでいる。しかもカバーを付けているあたり、相当の手練れだ。何を読んでいるか、簡単にはバレないようにしている。
「……クッ、やるな」
口に出さずに僕は心の中で唸った。
隠キャは、無駄に張り合わない。けれど、お互いの立場が似ていると分かってしまった以上、これは——バトルだ。
彼女が本を読む姿に、偽りはない。どこか集中しながらも、時折、周囲に意識を向けている。……そう、空気を読んでいる。わかる、僕もそうだから。
「こんな空気の中で一人、読書してるなんて……お前も、筋金入りだな、西堀」
そう思った瞬間、西堀の視線が、ほんの一瞬だけ僕の方へ流れた。
(え……見てた?)
(まさかこっちのこと、意識してる?)
(いや、そんなはずは——)
(でも、こっちの本のタイトルが見えてたかも)
(いや、見せてない。僕もちゃんとカバーしてる)
(じゃあなんで……)
僕の中で、静かな警報が鳴る。
これは……牽制だ。
さりげない視線の投げかけ。僕の読書時間への“割り込み”行為。つまり、「そっちも隠キャやってますね」っていう無言の確認。そしてそれを肯定も否定もせず、自然に戻る。これが、西堀流のスタイル——
「ッ……やっぱり、負けられない」
僕は意識的にページをめくる音を小さくした。静かに、でも確実に、読書していることをアピールする。何のアピールなのか、自分でもよく分からない。でもこれは勝負だ。どちらが真の隠キャ代表なのかを巡る、静かで熱い戦いだ。
ーーーー
放課後。クラスのほとんどが帰った後、教室には僕と、西堀の2人だけが残っていた。
(……帰れよ)
(お前こそ、早く帰れ)
お互い、直接言うことはない。でも、無言のまま空気を読み合い、張り合っている。
僕はスマホを手に取り、ホーム画面を見ただけで、何も開かずにまた机に置いた。これはただの『隠キャ的間』の演出だ。無駄にスマホを見せびらかさない。けど、持ってるし触る。それが、自然体。
すると、西堀がスッと立ち上がった。
(……帰るのか?)
(いや、違う)
彼女は鞄の中から、イヤホンを取り出した。ワイヤレスじゃない。あえての有線。そういうところにも、価値観が滲んでる。
それを見た僕も、鞄の中に手を伸ばし、携帯ゲーム機を取り出す。これもまた、オフライン。ネット対戦なんてしない。1人で黙々と遊ぶ、RPGだ。
西堀の視線が、一瞬だけゲーム機に落ちた。
その目が言っている。
(ふうん、そっち系か)
(まさか、お前もゲーマーだったりする?)
(しかも1人用? それはちょっと……共感する)
でも、認めるわけにはいかない。こちらも同じだ。
「……あのさ」
その時、西堀がぽつりと声を出した。
一瞬、僕の心臓が跳ねる。今、話しかけてきた? 僕に? この状況で? 先に話しかけたら負け、って不文律があったはず——
「木嶋くんってさ、好きなアニメとかある?」
「……!」
僕はゲーム画面を止め、彼女を見た。眼鏡の奥の目は、まっすぐこちらを見つめている。けど、その声のトーンは淡々としていて、どこか探るようだった。
これは罠か?
僕に告白させる罠か? アニメの趣味を話す=心の扉を開く行為。それをやったら、たぶん負けだ。でも——
「あるよ」
僕は言った。逃げなかった。
「そっちこそ、どうなんだよ」
「……ある。好きなジャンル、被ってるかもって思ってた」
「まさか……推理もの?」
「……うん」
「僕も、だ」
目が合う。互いに、目を逸らさない。お互いのプライドを賭けて、ここまで張り合ってきた。でも、趣味はたぶん、すごく似てる。
「さっきから、ずっと思ってた」
「……何を?」
「これってさ、どっちが隠キャ代表かって、意味あるのかなって」
「……あるよ。少なくとも、今は」
「そっか……」
西堀はそう言って、小さく笑った。
その笑顔は、どこか悔しそうで、それでも少し嬉しそうだった。僕も、たぶん同じ顔をしていた。
——このバトルに、勝者なんていない。
でも、負けたくないと思う相手ができたことが、少しだけ、嬉しかった。
そして、2人はそのまま、無言で机に向かい、読書とゲームを再開した。
沈黙の中で、少しだけ近づいた距離感。
きっと、次にどちらかがメッセージを送った時、それが本当の勝負になる。
——その日を、少しだけ楽しみにしている自分がいた。