気配の海辺、静寂のバトル
潮の香りが、春の海風に乗って漂っていた。
砂浜には、高校のクラスメートたちがバラバラに散り、手にしたトングでペットボトルや空き缶を拾っている。皆、青い体操服に身を包み、少し汗ばんだ額をぬぐいながら、海岸清掃という名目の行事に付き合わされていた。
もちろん、僕もその中にいた。
木嶋翔太。高校一年生、16歳。黒髪の前髪は目元を隠すように下がり、セミロングの毛先が風に揺れる。
見た目からして「話しかけないでください」オーラ全開だし、実際そう思ってる。
「ふぅ……」
誰にも気づかれぬよう、砂浜の端の方でゴミ袋を抱え、手袋をはめた手で黙々とゴミを拾っていた。
陽キャの笑い声は遠くで弾けてる。イベントでテンションが上がってるのか、くだらない自撮りをしながら海をバックにポーズを取っていた。
僕は、その中に絶対に混ざらない。
存在を消すということに、僕は全力を注いでいる。クラスで一番の隠キャである自覚があるし、誰にも見つからないように、目立たないように、今日もちゃんと空気を読んで行動している。
だが――
「……いない、な」
今日、唯一気になっていたのが、もう一人の隠キャ代表、西堀茜の姿だった。
彼女も同じクラスで、黒髪ロング、眼鏡に無表情。見事なまでに感情の起伏を見せず、かといって誰かと仲良くなろうともせず、常に誰の空気にも染まらない孤高のスタイルを保っている。
彼女とは言葉を交わしたことがある。連絡先は交換済みだけど、こっちからは絶対に送らないと決めてる。
なぜなら、メッセージを送った方が負けだからだ。
先日、彼女がメッセージを送ってきたけど、あれは「既読スルー」だと言いカウントはノーゲーム。
要するに、今、僕たちは「どっちがより隠キャとして格上か」をかけて、静かに争っている最中なのだ。
でも、その西堀が、今日はあまりにも気配がない。
いや、本当に、存在すら感じられないほどだ。
これは……隠キャとして、いや、人として、ちょっと心配になるレベル。
(まさか、倒れてる……? いやでも、彼女のことだし……人目のつかない場所で気配レベルを極めてるだけかもしれない)
葛藤する。
声をかけたら負けだ。でも……見に行くだけなら。
僕は小さくため息をつき、潮風に背中を押されるように、人気のない岩陰へと足を向けた。
ーーーー
そこにいた。
西堀茜。膝を折って座り、黙々と小さなプラスチック片を拾っている。
……なんということだ。
まったく気配がなかった。
僕は、驚きと同時に、妙な敗北感に襲われた。
(……これは……やばい。やばいぞ。完全に気配隠しで負けてる……)
茜はこちらを見ない。いや、多分、気づいている。
空気の流れを読む能力は、間違いなく僕たち互角。
むしろ、今日は彼女の方が一枚上手だ。
「……なにか御用?」
唐突に、背を向けたまま彼女が呟いた。
やはり気づいてた……!
「いや、別に……ちょっと人がいないから、ゴミ拾いしやすいと思って……」
取り繕った。無言で去るには遅すぎたし、話しかけたと悟られたら、それこそ敗北だ。
「ふぅん。……そんなこと言って、私の気配消しを確認しに来たんでしょ」
ド直球だった。
僕は返す言葉を一瞬失ったが、負けるわけにはいかない。
「は? そっちこそ、人目のつかない岩陰にこもって、まるで存在消失の練習でもしてたんじゃないの?」
「違うわ。ただ、太陽がまぶしかったから。ほら、私、眼鏡だから反射がきついの」
くっ……自然な言い訳……
「……でも、気配なさすぎたのは認める。見失ったから探しに来たってのは……まぁ、ある」
言ってしまった。
しまった、と心の中で叫ぶ。
すると茜が、ふっと笑った。
表情には出さないけど、気配だけがわずかに柔らかくなった気がした。
「それって、つまり心配してくれたってこと?」
「ち、違うってば。ただ……」
言いかけて、言葉が止まる。
なんだこれ。まるで会話してるじゃないか。
しかも、クラスでもここまで長く話したことはなかったのに。
「……私、別に消えたくて気配を消してるわけじゃないの。空気になりたいだけ。でしょ? 木嶋くんも」
「……まぁな」
風がまた、海から吹いてきた。
静かな音。波の音。
陽キャたちの声は、遠い。
そこはまるで、僕たちだけの空間だった。
ーーーー
「……でも今日のは完敗だった。完全に見失ったもん。存在感ゼロっていうか、透明人間かと思った」
「じゃあ……勝ちってことでいい?」
「いや、それとこれとは別だ」
「負けを認めないところが、また隠キャらしいわね」
「そっちだって、人に心配されて、まんざらでもなさそうだったけど」
茜は黙ったまま、トングで小さなビニール片を拾う。
そして、ボソッと。
「……ちょっとだけね」
その声に、僕の心臓が変な跳ね方をした。
「……次は、もっと気配を消してみせる」
「私も負けない。もっと誰にも見つからないくらい、空気になってやる」
「でも、探すけどね」
「じゃあ、私は……見つからないように、隠れる」
どこか、追いかけっこのような、それでいて、誰にも見せない戦いのような。
2人だけの、静かで、でも熱すぎる勝負が、また始まろうとしていた。
潮の香りの中で、僕は確かに彼女の気配を感じていた。
そして、それがなぜだか、少しだけ心地よかった。