難儀な二人の自習時間
放課後じゃない。昼休みでもない。ただの自習時間。それなのに、教室には妙な緊張感が漂っていた。少なくとも、僕――木嶋翔太にとっては。
窓際の席。陽射しはカーテンに遮られて薄暗く、僕の机の上にはノートと筆記用具だけ。静かにページをめくるふりをしながら、僕は視線の端で、同じ列の二つ斜め前に座る人物――西堀茜の後ろ姿を見ていた。
(やっぱり、こいつ……只者じゃない)
そう、確信に近い直感だった。
僕は、高校に入ってから一言もクラスメイトと普通に会話していない。聞かれたことには最小限で返す。でも、それ以上は話さない。陽キャには近寄らないし、寄ってきても軽く躱す。それを三週間続けた。結果、今のところ『浮いてないのに目立たない』絶妙なポジションをキープしている。
そして、西堀もそうだった。
黒髪ロングに眼鏡。目立たないけど存在感がある。話さないけど、空気は読んでいる。しかも、隠キャの気配を感じ取る能力に関しては、僕と同等。彼女は僕の隠キャオーラに気づき、僕も彼女の隠キャフィールドを認識した。
(普通、こういうのって、言葉に出さなくてもわかる。共鳴する。引かれ合う)
なのに――問題はそこからだった。
いや、違う。彼女が仕掛けてきた。それだけだ。勝ち負けじゃない。そもそも、そのメッセージ――
《今日、図書館で見かけたけど、たまたま?》
という実用的すぎる内容だった。それに僕が答えなかったことで、勝負はノーカウントということに、何となく、暗黙の了解でなった。
それ以降、僕たちは誰が本物の隠キャかを競い始めた。陽キャと一切関わらず、普通人との距離も最小限、だが孤立はせず。教室という社交バトルフィールドの中で、完璧なステルス性能を競い合っている。
そして今、自習時間。教室の隅々まで張り巡らされた静寂の中で、西堀の筆が動きを止めた。
(……あれは、考えてるな)
僕も、ノートを開いていたが、同じページから動いていない。無意識に、西堀の呼吸や体の向きを分析する。彼女も、僕がそうしていることに気づいているはずだ。けれど、振り返ったりはしない。
(こいつ……俺と同じことを考えてる気がする)
(木嶋……まさか、今……私のことを意識してる?)
二人の思考が交差する。このままだと、隠キャが隠キャを意識しすぎて、関係が隠しきれなくなる。それは、致命的だ。
僕は考える。この関係に、終止符を打つべきじゃないかと。けれど――終わらせた瞬間、僕の負けになる気がする。
(先に、何かを言った方が負けだ。これは不文律。ルールじゃない。空気だ。気配だ)
だが、西堀が動いた。筆箱から取り出したのは――
飴玉。
(……!?)
彼女はそれを机にそっと置いた。目立たぬように。けれど、見えた。俺に見せた。いや、見せるつもりだったのか?
(これは……挑発?)
いや、違う。西堀にとっては、飴を食べることは『自分を保つ儀式』かもしれない。けれど、タイミングがあまりに不自然だ。僕が見ていることを知っていて、やっている。
彼女は少しだけ首を傾けた。顔は見えない。でも、僕には分かった。
(言ってみなさいよ、木嶋くん。『それ、美味しい?』って……ほら。言ってみなさい)
(くそ……!)
僕の中で、何かがぐらりと揺れた。喉元まで言葉が出かける。でも、そこでこらえた。
(言わない……言ったら、負けだ)
代わりに、僕は筆記用具を片付け、静かにノートを閉じた。これは、僕なりの返し。
「君の挑発には乗らない」というメッセージ。
その瞬間、西堀の指がピクリと動いた。飴を、鞄に戻した。言葉はない。視線も交わさない。でも――会話していた。
(……引き分けだな)
(……いや、私の勝ちだ。木嶋くん、飴を見て反応したでしょ)
(ちっ……やっぱり、あの一手は効いたか)
(でも、認めない。こいつにだけは、絶対に)
休み時間のチャイムが鳴る。教室が少し騒がしくなっていく。陽キャたちが笑いながら話し出す中、僕と西堀は、同じタイミングで立ち上がる。
誰にも気づかれないように、ほんの少しだけ、目線を交わす。
(まだ、勝負は終わってない)
(まだまだ、終わらせる気はない)
そして、二人とも、別々の方向に歩き出す。けれど、歩調は、ぴたりと同じだった。