静寂の尾行
放課後のチャイムが鳴っても、西堀茜は席を立たなかった。立たないのではなく、立てなかった。いや、正確には「他の生徒と同じタイミングで動くのが嫌だった」だけだ。
(今日こそ……確認する)
茜は静かに立ち上がり、廊下に出た。制服のスカートの裾が揺れ、カチャリと眼鏡を押し上げる仕草が癖になっていた。教室の前方、扉の影に気配を溶かしながら待つ。ターゲットは木嶋翔太。クラスで一番、目立たない少年——という評価が、彼女の中で定まっていた。
そして同時に、同族の気配を感じていた。
(あの人……絶対、隠キャだわ)
それは嗅覚に近かった。言葉や行動じゃない。気配。視線の使い方、口数、休み時間の過ごし方。全てが彼女にとって「わかる」ものだった。だが、問題は——
(私とどっちが……“上”なのか)
その答えを得るために、彼女は尾行を決行する。彼の“放課後の過ごし方”——それは隠キャにとって、最大の判断材料だ。誰ともつるまず、誰にも見られず、いかに一人の時間を洗練させているか。それが“格”を決める。
下駄箱で靴を履く木嶋の背中を視界に捉える。少し猫背で、フードのついた黒いパーカーを制服の上に羽織っている。髪はセミロングで、前髪が目にかかっている。背丈は平均より少し低いが、その分存在感も薄い。完璧な隠キャ仕様。
(なるほど……擬態は本物)
茜は距離を保ちつつ、靴音を殺してついていく。人波の中に紛れず、信号のタイミングさえ読んで移動。尾行中、彼女は一言も発さなかった。心の中では、情報収集と分析が続く。
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1箇所目:古書店
駅前から2つ目の角を曲がると、路地裏にある古書店の扉が開いた。そこに入っていく木嶋。店の名前は聞いたことのない、静かで埃っぽい香りのするような名前。
(まさか、古本屋に……)
茜は角を曲がる前で立ち止まり、スマホの画面に自分の顔を映して位置を微調整。カバンから小さなポケットミラーを取り出し、反射で店内を確認。
彼は、一番奥の文庫コーナーで立ち読みを始めた。タイトルを確認するために、茜はさらに位置を変え、別のガラスの反射から確認する。
(『銀河鉄道の夜』……しかも文庫じゃなく、旧字表記の限定版)
正確には、宮沢賢治の全集の中から選んで読んでいるようだった。しかも、誰もいない時間を見計らって、立ち読み。定位置を確保し、スマホは一切触らない。時折、目を閉じては文章を噛み締めているような表情。
(やるじゃない……)
情報収集終了と判断し、彼が動き出すタイミングを見てから茜も退店。さりげなく路地を抜け、次の目的地へ。
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2箇所目:公園のベンチ
古書店から15分ほど歩いた場所にある公園。その隅にある、人通りの少ないベンチに木嶋は腰を下ろした。ここもまた、選ばれし“孤独スポット”の一つ。
(この公園……他の人間も避けるほど静か。風の音しか聞こえない)
ベンチに座る木嶋は、先ほど買った古書をカバンにしまい、今度は小さなノートを取り出した。何かを書き始める。
(……日記? それとも創作?)
彼の手の動きから、ただのメモ書きではないと直感した。ゆっくり、丁寧に。ときどきペンを止めては、空を見上げて考える。文字数も多い。何かしらのストーリーを書いている——その可能性が濃厚。
(こっちも……やってるじゃない)
ますます引けを取れない気がしてくる。いや、引きたくない。目を細めて、次の行動を確認。
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3箇所目:コンビニ(小説雑誌の立ち読み)
陽が落ち始めた頃、木嶋は最寄りのコンビニに入った。彼が手に取ったのは、小説投稿雑誌。しかも、一般向けではなく、文芸系の硬派なもの。
(表紙の特集……“新人賞受賞作家特集”。渋い)
彼はレジには向かわず、その場で立ち読み。たっぷり20分。コンビニ店員の気配を感じ取って、タイミング良くページをめくる。店員も咎めない読み方。
(読書マナー、完全に熟練者)
やがて雑誌を戻すと、何も買わずにコンビニを出る。その後、何事もなかったように自宅方向へ歩き始めた。茜は尾行を解除し、最寄りの角で足を止める。
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自宅に戻った茜は、制服のまま自室の机に座る。パソコンを開かず、スマホも見ない。今日の記憶を頭の中で巻き戻す。いつも通り、照明は暗め、BGMは無し。ノートを取り出して、記録を開始。
<木嶋翔太:隠キャ行動分析>
⚫︎古書店選定眼:非常に高い→ 混雑しない時間帯、地元の文芸特化書店、選書センスあり。
⚫︎ベンチでの執筆行動:創作活動の可能性高→ 周囲を警戒しつつ、一定の集中力を維持。精神的に強い。
⚫︎コンビニでの雑誌選定:新人賞特集を読む姿勢→ 将来的な志望職の可能性。作家、あるいは編集志望か。
茜は眼鏡を外し、手で額を押さえた。
(……ここまでとは)
正直、舐めていた。あの佇まい、地味な服装、目立たなさ。それらすべてが偽装ではなく、真の“隠キャ”ゆえの選択。しかも、行動のすべてに一貫した“孤独の美学”がある。
(隠キャであることに……誇りを持ってる)
不思議な感情が胸をよぎる。悔しさ? 羨望? いや——
(……共感?)
思わずスマホを手に取る。メッセージアプリの画面を開く。すでに交換済みの連絡先。「木嶋翔太」の名前が、未読0で表示されている。何も送られてこない。それが当然だと思っていた。なぜなら、
(メッセージを送ったほうが……負け)
そのルールがあるからだ。だが——
指が、勝手にメッセージ欄をタップしていた。
何を書こうとしているのか、自分でもわからない。ただ、今日一日、彼の背中を見続けたことで、何かが心の内側で変わった。これまでの自分が、ただ静かで孤高であろうとしていた「仮面の隠キャ」だったのではないかという不安。それに比べて、木嶋翔太の姿には、静かさの中に確かな意志があった。
(彼は……自分の世界を守っている)
それが、悔しい。羨ましい。だからこそ——言葉を送ってしまいそうになる。だが、茜はその手を止めた。
「違う」
ぽつりと、声が漏れる。
(これは、私の戦い)
彼と同じ土俵で、自分もまた“孤独の美学”を示さなければならない。感情に流されて、繋がりを求めるような真似は、敗北宣言に等しい。だが、それでも——
(でも……気づいてほしいって思ってる時点で、もう……)
唇を噛む。己の弱さが、ノートに記した分析よりも何よりも、彼女を揺さぶっていた。
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次の日、茜はまた誰よりも遅く教室を出た。
そして、その日も彼女は木嶋の背を追った。
まるで儀式のように。まるで戦場に赴くように。
気配を殺して、存在を消して——それでも確かに、彼の隣にいる感覚を覚えながら。
彼が選ぶ店、道、言葉のない所作。その一つ一つを、彼女は吸収し、学び、そして比較する。
(これが私の答えの出し方)
だがその日は、途中で尾行が終わった。
古書店を出たところで、木嶋が唐突に立ち止まり、振り返ったのだ。
「……西堀さん」
名を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。全身から血の気が引いた。バレた? いや、それだけじゃない。
「昨日もいたよね」
静かな声だった。決して責めるでも、探るでもない。ただ、淡々と事実を述べる口調。
茜は何も言えなかった。否定すれば嘘になる。肯定すれば負けを認めることになる。
「……確認してただけ」
しばらく沈黙が続き、そのあとでようやく、絞り出すようにそう言った。目を逸らさずに、しかし睨みもせず、ただ真っ直ぐに。
木嶋は少しだけ目を細めて、それから静かに笑った。
ほんの少し——意地悪くも、嬉しそうにも見える、微妙な表情。
「僕も。君のこと、観察してた」
「……は?」
「隠キャ同士、気になるでしょ。どっちが上か」
その言葉に、思わず笑いそうになる自分がいた。そして、悔しいことに——心のどこかで安堵していた。
「張り合ってたのは、私だけかと思ってた」と西堀が呟く。
「張り合ってるよ。お互いにね」と木嶋が答える。
その言葉に、ふたりの距離がほんの一歩だけ、縮まったような気がした。
沈黙が、風の音に溶けていく。木嶋は鞄から昨日の古書を取り出して、手渡す。
「君も、読むでしょ? 宮沢賢治」
「……旧字、読めるけど?」
「じゃあ、今度は君のおすすめ、教えてよ」
まるで勝負の続きを提示されたようだった。茜は頷いた。それは対話でもあり、宣戦布告でもあった。
(この張り合い、まだ終わってない)
そう思いながら、彼女は古書を受け取る。
孤独という名のプライドを守りながら、ふたりの距離は少しずつ、確実に変わっていく——そんな予感を胸に秘めて。
そして彼女は、再び心に誓った。
(次は……私が尾行させる番)
静かな誇りを胸に抱きながら、西堀茜は歩き出した。今日もまた、自分という存在を、誰にも気づかれないように、しかし確かに世界に刻みながら。