静かな戦場
隠キャが2人被ると空気が澱む――西堀茜がそう言っていた。
新学期が始まり、もうすぐ一ヶ月。僕――木嶋翔太は、最近ようやくその意味がわかってきた気がする。
陽キャには分からない。わざわざ言葉にしない、いや、できない種類の空気だ。教室の片隅。黒板のチョークの軋む音が空中に滲む中、僕と西堀は、常にお互いを「感じて」いた。
同類だということは、初対面から分かっていた。目を合わせたのは入学式。視線を逸らすタイミング、イヤホンをつける速さ、筆箱の端っこに貼られたキャラのシール――全部が、僕と彼女の共通点だった。
そして、それを「お互いに気づいている」ことも、分かっている。
僕たちはもう、連絡先まで交換している。そして、クラスのグループメッセージの流れの中で、自然なふりをして個別に繋がった。ただし、それ以降、個別チャットは一度も開いていない。
なぜなら、どちらからも「最初の一言」が来ないからだ。
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今日も、教室の隅の席で僕は本を開く。スマホに入れておいた青空文庫の古本。太宰治。べつに本気で読んでいるわけじゃない。ページをタップするリズムと、たまに漏れる「ため息」が重要なのだ。
隣の隣。西堀茜もまた、似たような動作をしている。
眼鏡の奥の視線が、ちらりと僕に向く。僕もさりげなく視線をずらす。
タイミングが、またかぶった。
(……くそ)
なんなんだ、このシンクロ率。
僕は内心で頭を抱えた。
たぶん、彼女も同じように思っているはずだ。いや、思っててほしい。そうじゃないと僕だけが空回っているみたいで、それは悔しい。
西堀が教科書の端を丁寧に揃える。僕も同じようにノートの角を撫でた。ピタリと合う音。
(完全に、かぶった)
このままじゃ、いけない。このままじゃ、「西堀茜」の方が、僕よりも「隠キャとして優れている」と判断されてしまう。そんなことがあるのかって? あるんだよ、隠キャの世界では。
誰にも注目されず、それでいて静かに存在感を放つ。そんな孤高のバランスを取るには、繊細なコントロールが必要だ。ちょっとでも目立つと「痛い奴」と思われるし、空気になりすぎると「居ない人」になる。
つまり、一番「ちょうどいい」隠キャであることこそ、僕たちの矜持なのだ。
僕は思った。
(彼女より、少しだけ早く行動する)
それが、この静かな戦いにおける勝利の条件だ。
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例えば、昼休み。
西堀はいつも、昼食を人の少ない中庭で食べる。気づけば、僕も似たような場所を選んでいた。
それに気づいたある日から、僕は彼女よりも先に中庭に向かうようにした。教室に残るという選択肢は捨てた。なぜなら、それでは彼女に中庭を「支配」される。
中庭は僕のものだ。
僕が先に着席し、カバンからおにぎりを取り出すと、西堀が数歩遅れてやってくる。
その足が、一瞬止まる。
(よし)
僕の勝ちだ。
だが、西堀は動じなかった。ほんのわずかに口元を引き結び、僕から2メートルほど離れた場所に腰を下ろした。そして、僕と同じようにコンビニの袋からおにぎりを取り出す。
(なぜだ……同じセブン……同じ梅……)
僕は絶望した。なぜこうも、かぶる?
もはやこれは奇跡ではなく、運命なのでは? とまで考えた。
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ある日の放課後。
いつも通り教室を出るタイミングを計っていたら、隣で西堀が筆箱をゆっくりとしまっていた。
このままじゃ、また「同じタイミング」になってしまう。
僕は咄嗟に立ち上がった。立ち上がったけど、しまった、少し早すぎた。
教室のドアで立ち止まり、鞄の中を覗き込むふりをする。ふと後ろを見ると、西堀も同じように立ち止まっていた。眼鏡の奥の視線が、こちらを伺っている。
(これも……駆け引きだよな)
僕は歩き出した。彼女の前を、絶妙な距離で通り過ぎる。
背中に視線を感じる。彼女の足音が、少し遅れて聞こえてくる。
(また……僕の勝ちか?)
だが、角を曲がったとき、後ろから声がした。
「……木嶋くんって、ほんと、変にかぶるよね」
立ち止まるしかなかった。まさか、話しかけられるとは。
「……西堀さんこそ」
僕は振り返って、なるべく自然に答えた。
「お互い、読んでるものも似てるし。好みも。タイミングも」
西堀は眼鏡の奥で目を細めた。笑っているような、呆れているような。
「……隠キャの、意地の張り合い?」
「……そう、かも」
僕は正直に言った。
「でも、たぶん……そっちも、そうでしょ?」
「……うん。認める。私も、譲る気はなかった」
風が吹いた。春の終わりの、少し湿った風。
西堀の髪が揺れ、彼女の視線が真っ直ぐ僕を捉えた。
「じゃあさ、どうする? このままだと、ずっと平行線だよ?」
「……じゃあ、どっちが隠キャ代表か、決める?」
「決め方は?」
「先に……メッセージ、送った方の負け」
「……へえ。面白いじゃん」
西堀はふっと笑った。少しだけ、楽しそうだった。
「じゃあ、こっちから送らなきゃいいんだよね?」
「うん。でも、送らなかったらずっとこのままだけど」
「それでもいいかも」
そう言って、西堀は背を向けた。風に乗って、彼女の声が届く。
「私、けっこうこの空気、好きだし」
僕はその背中を見送りながら、ポケットのスマホをそっと握りしめた。
僕たちの静かな戦いは、まだまだ続く。だけど――少しずつ、変わっていく気もしていた。