花火と沈黙と、心の距離
夏休みのある日。午後二時。エアコンの効いた部屋の中、僕はスマホの通知音で目を覚ました。
――島田由衣。メッセージの内容は、たった一言だった。
「夏祭り行こう」
……夏祭り、か。
脳裏に浮かんだのは、浴衣、屋台、花火、混雑、人混み、騒音、笑顔、写真、カップル、リア充。
そして、陽キャ。
僕は即座に断りのメッセージを打ち始めた。「ごめん、用事あるかも」か「人混み苦手で」か、それとも「体調悪いかも」か。いや、嘘はつきたくない。でも本音は、行きたくない。
指が迷う。
すると、その間にまた通知音が鳴った。
「茜も誘ったから」
……え?
茜――つまり、西堀茜。僕の、いちばん近くて、いちばん遠い隠キャ仲間。
言葉では交わさずとも、僕たちはある種の戦友だった。「どちらがより目立たないか」の頂点を極めるべく、日々水面下で火花を散らしてきた。
その茜が、島田由衣に誘われて、夏祭りに行く?
思考が止まった。
画面のキーボードに視線を落とし、ためらいの末、指が勝手に動いた。
「行く」
……やっちまった。
でも、不思議と後悔はなかった。
ーーーー
当日、駅前で待ち合わせたのは午後六時。
僕は服を選ぶのに、いつもの三倍くらい時間をかけた。黒のTシャツにネイビーのパンツ。目立たない。無難。けど、少しだけ「頑張った」感を滲ませたつもりだ。バレない程度に。
駅に着いたとき、すでに由衣がいた。明るい浴衣に髪をアップにして、笑顔で手を振っている。
「おっそーい、翔太。あ、茜もさっき来たよ」
「あ、うん」
視線を泳がせながら、周囲を探す。
少し離れたベンチに、彼女はいた。藍色の浴衣。落ち着いた柄。眼鏡をかけたまま、スマホをいじっている。
「……西堀さん」
思わず、そう呟いた。
僕が近づくと、彼女もこちらに気づいて顔を上げた。そして、わずかに目を見開いてから、そっぽを向く。
「……翔太くん」
それだけ。互いに視線を合わせることはなかった。けれど、どこかで、ほんの少し嬉しいという気配が読み取れた。
「え、なにこの空気! お似合いじゃーん!」
由衣が茶化すように笑うけど、僕も茜もそれに応じない。代わりに、僕らは心の中で何かが崩れる音を聞いていた。
距離、という名の壁。
ーーーー
祭り会場は想像以上の人混みだった。浴衣の人々、響く笑い声、屋台の灯り、焼きそばの匂い、うるさいほどのBGM。
足元が不安定になる。
茜も、少し怯えたような顔で隣を歩いていた。由衣は最前列を歩いている。まるで別の世界の住人みたいに、キラキラしていた。
「……うるさいね」
小さく、西堀が言った。
「うん……ちょっと、苦手」
自然に並んで歩く僕たち。だけど、その歩幅はどこかぎこちない。お互いに、近づきすぎないように、でも離れすぎないようにしている。
「なんで来たの?」
「え?」
「祭り、嫌いでしょ。……翔太くんも」
「……西堀さんこそ。なんで来たの」
「……」
彼女は言葉に詰まった。
でも、僕もその沈黙で答えを理解した。
「……なんとなく、だよ」
僕もそう言った。だけど、それは嘘じゃなかった。
なんとなく。
それは理由にならないけれど、強い衝動だった。
ーーーー
金魚すくい、射的、りんご飴。
由衣が楽しげにいくつも屋台を回る一方で、僕と西堀は遠巻きにそれを見ていた。
「……やってみる?」
「うん……いいよ」
試しに挑戦した射的は、僕も西堀も一発も当たらず終わった。けど、それが逆に笑えてしまって、僕たちは初めて、ほんの少しだけ笑った。
その瞬間、ふと由衣がこちらを振り返った。
「ねえ、茜。翔太とさ、手つないでみなよ」
「なっ……!」
僕も茜も同時に赤面した。
「……バカなこと言わないで」
西堀が低い声で言ったけれど、声が震えていた。僕も何も言えず、ただ視線を足元に落とした。
だけど――ふと、風が吹いた。
浴衣の袖が揺れて、西堀の指先が、僕の手の甲に触れた。
ほんの一瞬。
けれど、それは確かに、心の距離を縮めた。
ーーーー
夜が更けて、花火が始まるころ。
僕たちは川沿いの堤防に並んで座っていた。由衣はどこかに行ってしまい、今は二人きり。
「……綺麗だね」
西堀がぽつりと呟く。
僕はその横顔を、少しだけ見つめた。メガネの奥の瞳に、花火の光が映っていた。
「うん」
それだけを返す。言葉は、いらない気がした。
沈黙が落ちる。
でも、心地よい沈黙だった。
「……私、ほんとは、翔太くんが来るって聞いたから、来たの」
その言葉が、夜の空に小さく溶けていった。
「……僕も」
応える声は震えていたけど、それでも言えた。
「私たちって、変な関係だよね」
「うん……でも、それでいい」
そう言ったとき、花火が大きく夜空に咲いた。
このまま、時が止まればいいのに。
そう思ったのは、きっと僕だけじゃなかった。
ーーーー
帰り道、駅までの夜道。
由衣は笑っていた。「いい感じじゃーん!」と。
けれど僕たちは、何も言わずに前を歩いた。
手はつながない。でも、心は少しだけ、寄り添っていた。
祭りの終わりは、何かの始まりだった。
僕と西堀さんの、夏の終わりの物語は、まだ始まったばかりだ。




