曖昧な境界線
今日は月曜日。空は曇っていて、僕の心の中とおんなじ色をしていた。
週のはじまりはいつだって憂鬱だ。だけど、今日は特に、ほんの少しだけ緊張している自分がいた。
理由はわかってる。西堀さんだ。
彼女とは、この4ヶ月間、どこまでも無難に、でも絶妙な距離感で付き合ってきた。隠キャ同士、お互いの気配を読むのが得意だから、言葉にせずとも「これ以上は踏み込まない」という線を自然と引いていた。
……はずだった。
だけど最近、その線が揺らぎ始めている気がして、怖いような、嬉しいような、そんな感覚に襲われることがある。
ほんの一言、メッセージを送るかどうか迷って、結局何も打たずにスマホを閉じる。そんな夜が増えた。
「……いや、今日も1人で図書館に行くだけだし、関係ないし」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、僕は自宅を出た。
ーーーー
図書館までは徒歩20分。
この時間は人通りが少なくて、1人で歩くにはちょうどいい。耳にはイヤホンをつけているけど、音は流していない。何も聴いていない。でも、つけていれば話しかけられないという、ただの防御の儀式だ。
ところが。
その平穏な空気が、いきなり破られた。
「ねえ、木嶋くんだよね?」
僕の心臓がバクッと跳ねた。
え、なんで? 誰? 今、話しかけられた?
とっさにイヤホンを外し、目の前を見ると、そこには女子が一人立っていた。
黒髪セミロング、化粧はナチュラルっぽいけど整ってて、私服の着こなしも絶妙に今っぽい。
島田由衣さん。確か、同じクラスの陽キャ枠だ。
「う、うん。……そうだけど」
声がうわずって情けない。ああ、何でこんなに緊張してるんだ。
「やっぱりー!どこいくの?図書館かな?」
「え? あ、うん……まあ、そんなとこ……」
なんだこのテンション差。眩しい。むしろ怖い。
なんで話しかけてくるのか全然わからない。
「私も今から行こうと思ってたんだよねー。偶然じゃん!」
全然偶然じゃない気がする。
でも、そんなこと言える勇気は僕にはない。
「……そうなんだ」
たったそれだけの返事なのに、喉がカラカラだ。心の中はもう、何周も考えが渦巻いていた。
(いや待って、なにこれ。なんで陽キャと会話してんの? てか、なんで島田さん、僕のこと知ってるの?)
ーーーー
「木嶋くんってさ、普段どんな本読むの?」
「え? ……えっと、小説とか……ミステリが多いかな」
「へー! 意外!もっと哲学とか読んでそうだと思った」
「……それはそれで失礼じゃない?」
「ふふ、ごめんごめん。でも、似合うって思っただけだよ?」
(似合うってなに……似合うって何だ……)
由衣さんは終始笑顔だったけど、僕の方はもう、地面にでもめり込みたい気持ちだった。
彼女の言葉は全部、僕の自意識をぐさぐさと刺激してくる。
ああ、だめだ。無理だ。僕は、こういうの、向いてないんだ。
「じゃ、また後でね!図書館で会お!」
手を振って先に歩いていく島田さん。
僕はその後ろ姿を見送って、小さく息を吐いた。
(……図書館、行くのやめようかな)
ーーーー
結局、僕は図書館へ行った。
席に着いてノートを広げたけど、全然頭に入らない。島田さんがどこかにいるかと思うと、そわそわして仕方がなかった。
そして──それ以上に、もうひとつ気になる存在がいた。
(……西堀さん、どうしてるかな)
ポケットからスマホを取り出して、未送信のメッセージを何度も書いては消した。
そのとき、不意に通知が来た。
《茜:図書館いる?》
(……っ!!)
スマホを落としそうになった。マジか。向こうから……?
いや、でもこれは、あくまで確認だ。事務連絡だ。彼女のスタンスを、僕は知っている。
《木嶋:いるけど、人多め。空いてる席少なめ》
(セーフ。これなら情報交換。雑談じゃない)
《西堀:了解。こっち来る?廊下のソファ、誰もいない》
(……え、誘ってる?いや違う。提案だ。あくまで効率重視)
《木嶋:そっち向かいます》
足取りは、信じられないくらい軽かった。
ーーーー
廊下のソファに座っていた西堀さんは、相変わらず無表情だった。けれど、少しだけ頬が赤いように見えたのは、気のせいじゃないと思う。
「……島田さんと、話してたね」
「え?」
「さっき、見かけた。楽しそうだった」
「……いや、別に。話しかけられただけで……」
「ふーん」
微妙な間。重たい沈黙。心の会話が交錯する。
(まさか、嫉妬……してる?)
いやいや、そんなはずない。でも──もし、もし万が一、そうだったら。
「……なんか、いつもと違う」
「僕が?」
「ううん。私が、かも」
そう言って、彼女は目線を逸らした。メガネの奥で揺れる瞳が、やけに印象的だった。
「……最近さ、メッセージのやり取り、増えたよね」
「事務連絡だけどね」
「うん。事務連絡。……だけど、私は、ちょっとだけ嬉しい」
心臓が、また跳ねた。
「……僕も、だよ。たぶん」
目が合う。そこに、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
隣に座る彼女との距離は、ほんの30センチほど。
そのわずかな空間が、僕にはとても大きくて、でも、今なら埋められる気がした。
「……西堀さん」
「……うん?」
「今日、メッセージ送ってくれて、ありがとう」
「……木嶋くんが返してくれて、嬉しかったよ」
事務連絡の名のもとに交わされる言葉たち。だけど、そこには確かに、淡い気持ちが混ざっていた。
「今度、また一緒に、図書館行こう。……よかったら、だけど」
「それって……次も事務的に?」
「いや……次は、もうちょっと会話でも、いいかも」
彼女は少し黙ってから、ふっと微笑んだ。
「……そのときは、私が話しかけるね。勝ち負けじゃなくて」
「……うん。僕も、そう思ってたとこ」
ソファに並んで座る二人の影が、淡い光の中で、少しずつ重なっていった。




