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半径1メートルの心理戦

 放課後。下駄箱を抜けて校門の手前、ちょうどその境界線のあたり。コンクリートに降り注ぐ雨の音が、まるで戦場の機銃音のように耳を撃ってくる。空は真っ暗で、雷鳴が低く唸っていた。


 ……ゲリラ豪雨。しかも今日に限って傘を持ってきていない。いや、いつも持ってない。だって、そもそも傘を持ってくるような人間じゃない。朝の天気なんて信じていないし、雨が降ったら濡れればいいと思ってる。僕は、そういう主義だ。


 僕は、校舎の出入り口の陰、階段の隅っこの死角に身を潜めた。ここなら濡れないし、誰にも見つからない。家に帰る時間を少し遅らせるだけの簡単なことだ。スマホでもいじって時間を潰そう——そう思ってポケットに手を入れかけた、その時だった。


「……あっ」


 気配。視線。間違いない、誰かがいる。


 顔を上げると、僕とまったく同じ行動を取っている、もう一人の影。黒髪ロング、眼鏡、長袖のカーディガンに制服のスカート。教室では必要最低限の会話しかしない、まさに隠キャの鑑——西堀茜だった。


 ……うわ、まじか。先客がいた。


 「……」


 「……」


 僕たちは、声を出さずに目を合わせ、すぐに逸らす。その間、およそ0.5秒。これ以上見つめ合うと“喋る理由”が生まれてしまう。それは、絶対に避けたい。


 ——でも、これは、どういうことだ?


 この状況はあまりに重なりすぎている。つまり僕と彼女は、同じ場所、同じ思考、同じ行動を取ったわけで。これは……隠キャとしての動きが完全に被ってる。


 同類……いや、ライバルだ。


 ここ最近、微妙な牽制が続いている。教室の端と端で互いに気配を探り合い、休み時間には出入りのタイミングをずらし、お昼は誰にも気づかれずに一人で食べるための戦略を張り巡らせたりしていた。どちらが「より空気に溶け込んでいるか」——それを暗黙のルールとして戦ってきた。


 隠キャにとって「空気を読める」というのは、ステータスだ。誰にも迷惑をかけず、目立たず、波風を立てない。けれど、いざ同じ属性の人間が現れれば、その引きの美学が一転して前に出るべき場になる。


 ——ここで僕が喋ったら、負けだ。


 そう思った瞬間、口が勝手に動いた。


「……傘、持ってないの?」


 なんてことだ。口火を切ってしまった。これは完全に不利。隠キャとしての矜持を……捨てた?


 茜は、ほんの少し眉をひそめて、静かに口を開いた。


「……あなたもでしょ」


 ……くっ、返された。だが、落ち着いている。無表情。これが西堀茜……侮れない。


「……雨、強くなってきたね」


 この一言も、本来なら敗北宣言に近い。でも、言葉を発したことのリスクは、同じように相手にも課される。


「……雷も鳴ってる。今日はちょっと長引くかも」


 そうして、また沈黙。


 空気が詰まる。視線を合わせないようにしながらも、気配を読む。スマホを見るフリをしながら、彼女の気配を確認。彼女も同じように、足元を見つめているけれど、意識は明らかにこちらに向いている。


 心の中では、嵐のように思考が渦巻いていた。


 ——このまま喋り続けたら、僕のほうが隠キャ度で劣ることになる。


 ——でも黙ったままだと、逆に「気まずさに耐えられなかった奴」みたいになる。


 ——というか、もしかして彼女も同じこと考えてる?


 「……好きな教科、ある?」


 ……やってしまった。


 自爆だ。完全に会話を成立させに行っている。これじゃあもう、『会話に抵抗のない人間』認定されかねない。なぜ僕は、こんなことを……。


「……物理」


 彼女は迷いなく答えた。


 「……」


 「……あなたは?」


 思わず目を見てしまった。黒縁の眼鏡越しの瞳。まっすぐで、少しだけ、怒ってるような、それでいて試すような。


 「……現代文。読むだけだから」


 「……わかる。実験とか、やりたくない」


 そして、また沈黙。だけど——不思議と居心地が悪くなかった。


 「……今日の雨、夜まで続くらしいよ」


 「見たの?」


 「うん。朝、天気アプリで」


 「……隠キャなのに?」


 「……隠キャだから、天気だけは事前に調べておく」


 「でも傘、持ってないでしょ」


 「……家に忘れた。昨日干してて、そのまま」


 茜は「ふっ」と少しだけ笑った。それが、悔しいくらいに可愛かった。


 「私も……そんな感じ。朝は曇ってたから油断した」


 「……あるあるだね」


 気がつけば、さっきまでの張り詰めた空気は少しずつほどけていた。誰が隠キャ代表かなんて、正直もうどうでもよくなってきている。


 でも、口に出すのはまだ早い。プライドが、それを許さない。


 「……こういうとき、話しかけてくれるの、助かる」


 彼女が、ぽつりと呟いた。


 それは、僕に対する感謝だったのか、それとも——


 「……いや、僕が先に喋ったのは、敗北じゃないから」


 「うん、わかってる。これは……会話ではないってことでしょ?」


 「……そう、これはただの、情報交換」


 「じゃあ……明日、また情報交換、する?」


 「……たとえば、天気予報とか?」


 「うん。それとか……好きな本とか」


 茜の声は小さくて、でもはっきりしていた。


 そして僕は、ゆっくりとうなずいた。


 雨はまだ降り続いていたけれど、心の中の何かが少しだけ、晴れていった。


 こうして——隠キャ同士の、静かで熾烈なバトルは、少しだけ形を変えた。


 それはきっと、戦いの終わりじゃない。新たなステージの始まりだ。


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