記憶
晃はいつも通り、朝の光が差し込む静かな部屋で目を覚ました。時計は6時を指している。目覚まし時計のアラームが鳴る前に、毎朝自然に目が覚める。晃はいつも冷静沈着で、どんな時も慌てることがない。その性格が、他の高校生とは少し違うと感じることもあるが、気に留めたことはなかった。
「晃、朝ごはんできたよ。」
台所から姉の声が聞こえてくる。6歳年上の姉、奈月。両親を事故で失ってから、彼女が母親代わりだ。奈月の声はいつも温かく、彼にとって家族の全てだった。
「今から降りるとこ。」
晃はベッドから起き上がり、制服に着替えてからゆっくりと台所へ向かう。奈月が用意してくれた朝食を見て、小さな笑みを浮かべた。彼は心の中で感謝の気持ちを抱いていたが、口に出すことはほとんどない。
学校に向かう途中、晃は時々感じる不思議な感覚に再び襲われた。周囲の風景が一瞬ぼやけ、通りすがる人々の表情が一瞬歪んだように見える。しかし、それもほんの一瞬のことだ。何事もなかったかのように、すぐに元通りになった。
「なんだ、今のは…」
晃は足を止め、周囲を見渡すが、特に異常はない。心の中に微かな違和感が残ったものの、彼は冷静にそれを無視して、再び歩き始めた。
教室に着くと、いつもと変わらない友人たちとの会話が始まる。晃は落ち着いた性格で、周囲の喧騒に巻き込まれることは少ない。それでも、友人たちは彼の冷静さを信頼しており、困った時にはよく頼りにされる存在だった。
「お前、本当になんでそんなに落ち着いてるんだ?普通、もうちょっと焦るだろ?」
友人の健が、テスト前の緊張感に溢れた顔で晃に話しかける。
「さあな。ただ、焦っても仕方ないだろ。」
晃は笑顔を見せずに答えた。それは彼にとって自然な反応だった。冷静さは彼の本能であり、どんな状況でも取り乱すことはなかった。
しかし、その日の放課後、またあの奇妙な感覚が襲ってきた。夕焼けの光に染まる校舎を背にしながら、晃はふと空を見上げた。空が一瞬、赤に染まったように見えたが、すぐに元通りに戻った。しかし、心の中に広がる不安は、いつもとは少し違っていた。心の奥底に押し込めていた記憶が、断片的に浮かび上がる。鼓動が早まり、胸の中に不安が広がっていく。小さな頃の記憶――あの赤い空が再び目の前に現れた。
「あの時と同じだ。」
晃の記憶は幼少期に遡る。家族で行った楽しい旅行の帰り道、その時も同じように赤い空が広がっていた。
晃がまだ5歳の頃、家族4人で初めての旅行に行った。目的地は熱海。父親の計画で、家族全員が楽しみにしていた温泉旅行だ。
奈月もこの旅行を心待ちにしていた。いつも母親のように晃を世話していた姉だが、その時は笑顔が絶えなかった。
「晃、捕まえてごらん」
砂浜を駆け抜ける奈月が、晃を呼びながら笑っていた。晃も負けじとその後を追う。父親はカメラを手に、母親は微笑みながらその姿を見守っていた。
温泉旅館での楽しい時間、海での遊び――すべてが完璧だった。食事の時、家族全員で笑い合い、誰もが幸せだった。
しかし、帰り道で状況は急変した。晃は車の後部座席で眠りについていたが、ふとした違和感で目を覚ます。窓の外を見た瞬間、何かが違っていた。
「空が…赤い?」
晃が見上げた空は、異様に赤く染まっていた。その不気味な色は、まるで世界が燃えているかのようだった。
「奈月ちゃん…、この空…変だよ。」
晃は隣に座る姉にささやいた。
奈月も窓の外を見て、一瞬固まった。「本当だ…おかしい…」彼女の声は震えていた。
しかし、前の席に座っている両親は、全く気づいていない様子だった。母親は運転する父親に楽しげに話しかけている。
「ねえ、これ見て!」奈月は両親に向かって声を上げたが、両親の目にはその赤い空は見えていなかった。
「奈月、晃、どうしたんだ?」
父親は不思議そうに奈月を振り返った瞬間、急に前方を見つめたままハンドルから手を離し、意識を失った。
「お父さん!」
奈月の叫び声が車内に響き渡る。車は制御を失い、ハンドルは大きく右に傾いた。晃はとっさにシートベルトを握りしめたが、車はガードレールに激しくぶつかり、そのまま横転した。
ガラスが割れる音、車の軋む音――その全てが一瞬の出来事だった。車内は激しい衝撃と共に、静寂に包まれた。
「晃…」
奈月が血だらけの手で晃を抱きしめ、恐怖と不安が混じった声で呼びかけていた。晃は震える体をどうすることもできず、ただ奈月にしがみついていた。
その時も、窓の外に広がる空は不気味な赤で染まっていた。
「あの時と同じ…」
両親が見えなかった空――その時から何かがおかしかったのかもしれない。あの事故の後、晃の心に刻まれたのは、ただの悲しみだけではなかったのだと、彼は感じていた。