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アルヌイ -哲学する獣-  作者: シシ・ルイルイ
第一章 死に至る
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記録:アルヌイ



『私は自由です。だから道に迷ったのです。』

                    フランツ・カフカ

 

 黒い鉄の塊が浮遊していた。塊は油絵具で描かれたような灰色で濁った空の下をゆっくりと音も立てずに進んでいく。回遊魚じみた細長のシルエットを地上に落としつつ鉄塊は空を泳ぐ、行先には白い闇と見紛うほどの深い霧が地上から空の果てまで立ち込めている。



 そこは、人類を拒む大地、かつてはオーストラリア大陸と呼ばれていた広大な土地の全てが今では人を死に至らしめる超常の霧で覆われている。鉄塊が霧の中へと突入を始めると、その形が削り取られたように頭から霧の中に沈み込んでいった。



 霧の海の中を黒い回遊魚が降りていく、底にたどり着くと、腹が開いて、中から人影が一つ現れた。かつかつと鋼鉄を鳴らす靴音が響く。音の発生源たる人物は、ぼろきれを纏ったみすぼらしい風貌の割にがっちりとした体格を備え、腰には異形の(つるぎ)、反対側の腰には更に用途不明の様々な装備が吊り下げられていた。頭をすっぽりと覆うフードと、オオカミの意匠が施されたマスクが顔全体を隠している。


「黒魚の輸送は安全重視過ぎて到着に時間がかかるのがよくない。黒馬が使用できるくらい稼ぎがあればそっちにしたのにな」


 マスク越しの声色はゆがんだ機械音声に変換されていた。背後では後続の資源回収部隊が簡易拠点の設営を始めていた。


「アルヌイ」


 自らを呼ぶ声にオオカミマスクの人物は振り返る。そこには猿の意匠のマスクをした人物が立っていた。


「ニエか。同じ部隊に配属されるのは久しぶりだな。ジコエラは元気か?」


「あいつなら死んだ。第三柱(サード)の領域探索中にな」


 ニエと呼ばれた人物の声色に感情は無かった。淡々と起きたことだけを述べる機械の様な振る舞いだった。アルヌイもまた、そうか、とだけ返してニエの装備に目を向けた。


「P式か」


 ニエが背負っている黒い箱をアルヌイは知っていた。回収部隊に与えられる、希望と絶望の箱がP式だった。見た目は50×50の正方形の黒い箱でしかないが、実際の内容量は見た目よりもはるかに多く入る。仕組みについてはアルヌイも詳しく理解できていない。聞いたところでは、物質を精神エネルギーに変換し使用者の記憶領域に保存するらしいとのことだった。だがアルヌイがP式に目を向けたのは物珍しさからではない。



「……いい仕事にしよう」


「そうだな」ニエは頷くと簡易拠点の設営の手伝いへと向かった。


 ■


 霧の中にビルのように巨大な樹木が聳え立っている。枝の先からは赤い花弁が咲き誇っている。樹木の根本からは地上性の赤い花々が地面を埋め尽くさんと絨毯のように広がっていた。


 深紅の花畑の中を黒づくめの集団が花を踏み潰すのも厭わず速足で進んでいく。


「ガヲケレナの花畑が広がり始めているな。回収は手早く済ませよう」


 ニエが回収部隊のメンバー六人に向けて告げる。その最後尾にアルヌイも付随して歩いていた。隊の先頭を歩くニエの前方には灰色の小高い丘があった。丘の頂点のあたりには古井戸の様な建造物があり灰色の石レンガが見える。隊はそれを目指して歩いていた。



「これでおれの役目も終わりだと思うと感慨深いな。ようやく〈城〉に行ける」


 アルヌイの前を歩いていた回収部隊の一人が独り言のように言った。すると、それを起点に他の隊員たちが雑談し始めた。


「〈城〉って場所はこんな危険な仕事もしなくていいし、結婚して子孫を残してもいいらしいぞ」


「本当か? スプリガンの出現以降人口統制が敷かれているのにか?」


「さぁ本当かは分からないけど、先に〈城〉に行ったやつがそう言ってたぞ」


「まぁそんなもんだよな。でも自分の子供を持てるのは夢があるな」


「子供もいいけどセックスにも興味あるな。女と男でやるンだろ?」


「そうとも限らないらしいぜ。ていうかここにいる全員〈死人〉なのに子供なんて本当に作れるのか?」



 などなど、隊員たちの雑談に混じらずとも会話のやり取りをアルヌイは聞いていた。隊員たちが口々に言う〈城〉についてアルヌイも以前聞かされたことがあった。


 それがどこにあるのかも知らなかったが、アルヌイに城について話した人物はどこかにはあるのだと言う。そこでは人類は繁栄の限りを許され、設定された寿命よりも長生きすることすら許される。アルヌイのように外で怪物と戦うこともなければ、怪物に脅かされる不安もない。



 そんな場所がこの世界のどこかにあるのだとアルヌイは話半分で覚えている程度だったが、ここの隊員たちは心から信じているようだった。それに疑心をぶつけるほどアルヌイは無粋ではなかったし、さほど興味も無かった。



 自分がどうなりたいかなどアルヌイは考えたことも無かったからだ。アルヌイの中にあるのは自分が戦うためにこの場にいる事と、これからも戦い続けなければならない不変の未来だけだった。変わらない繰り返しだけがアルヌイを安心させた。


「到着だ。一人ずつ回収作業に移れ」


 ニエの声で隊全体の動きが止まる。古井戸の周辺にP式の黒い正方形の箱を降ろすと、ニエの周囲に集まった。回収部隊の面々は腰に提げた黒い水桶の様なもの持っていた。古い時代の〈釣瓶(つるべ)〉という道具だ。一人が釣瓶を持って古井戸のそばに立つニエの前に立った。



 傍らでニエが見守る中、釣瓶が古井戸へと落とされていく。アルヌイは何度もこの光景を見てきた。回収部隊と呼ばれる彼らの役目は古井戸の底に堆積した過去(・・)を汲みあげる事だ。アルヌイの知る過去とは人類が失った知恵とその産物。空を飛び地上を焼き払う鉄の鳥、その鳥よりも遥か高みにあって世界の全てを見通す鉄の星々、一万の人々が住まう巨大建造物が乱立していた時代があったという。



 アルヌイには〈城〉の存在よりも信じられない話だったが、そうした神秘の時代の産物・歴史は確かに現代にも存在している。アルヌイたちがここまで乗ってきた〈黒魚〉もその一つだった。


「う、ぐおお」


 釣瓶を引き上げていた隊員が苦悶の声を上げる。苦しみながらも釣瓶の滑車を動かす手は止まらない。ニエも他の隊員も、アルヌイもその様子を黙って見守る。やがて釣瓶が完全に引き上げられると隊員は息を荒げてその場に膝を着く。


「頭が……割れるようだ」


 猿を模したマスクの目の部分から赤い血が滴り落ちる。ニエがその隊員に肩を貸して、そばの木の根元で休ませると、他の隊員たちを振り返った。


「次だ。ここからは迅速に済ますぞ」


 ニエと回収部隊は粛々と作業を進める。その間、アルヌイにはやることが無い。アルヌイに与えられた仕事は戦うことであり、回収では無い。強いて言えば周囲の警戒はアルヌイの仕事だ。小高い丘の上から辺りを見れば、灰色の樹海と真っ白な濃霧ばかりが視界に移る。ガヲケレナ顕現から百年以上の時が流れていながら、この大地のほとんどは未開のままだ。



 アルヌイは想像をしない。この大地を覆う霧の先に何があるのか、なぜ古井戸の底に世界の過去があるのか、アルヌイにとってはどうでもいいことだった。今見えている事だけがアルヌイの全てだった。


 最後の一人が釣瓶を引き上げ終えると、ニエが古井戸に釣瓶を投げ入れようとした時だった。


「まずい」ニエが小さくこぼしたのをアルヌイは聞き逃さなかった。


「どうした」


「さっきの奴が悪いのを引いていたみたいだ。これ以上の回収は無理だろう、急いで撤収しよう」


 アルヌイもそれに頷く。腰に提げた異形の剣の柄を手繰って、握りしめた。剣はアルヌイの存在している唯一の理由だ。



 ■



 黒魚へと引き返す道中で、六人いた回収部隊が四人死んだ。ニエとアルヌイ、他二人の回収部隊は息を上げつつも走り続けていた。アルヌイが殿を務め、前の三人を急がす。後方には怪物が唸りを上げて迫ってきていた。


 行きは静かだった霧の森がざわざわと喚きたてる。アルヌイたちを逃しまいと草花が唄う。おかしな空気が森中に満ちていた。


「うっ」


 アルヌイの前で隊員の一人が転倒、咄嗟にその隊員をアルヌイは跳び越す。転んだ隊員はすぐに立ち上がろうとして、迫る怪物を見て悲鳴を上げた。


「し、死にたくない。死にたくない。もう少しで城に行けるのに、死んだら何もかも無駄になっちまう!」


 隊員の背後に怪物が迫る。赤い花々に覆われた人型をした木が隊員の頭上に腕を振り上げた。


「立て。行け」


アルヌイは引き返していた。人型の木が、隊員に腕を振り下ろす直前、その間に異形の剣を差しこんで、振り下ろされた腕を剣の腹で受け止めていた。


「た、助かった!」


 隊員はすかさず走り出して、ニエたちの後を追った。アルヌイだけがこの場に残され、人型の木と対峙する。木人はアルヌイに体を向けて、体表の赤い花々を一斉に開花させた。それが敵対の合図だと、アルヌイは経験で知っていた。


 剣の柄を握る手が熱くなる。初めて鼓動が脈を打ったかのような血の滾りが全身に広がっていく。マスクの下でアルヌイは笑っていた。


 木人が腕を薙ぎ払うように振るって、アルヌイに距離を取らせた。もう片方の腕が槍のように伸びて、飛びのいて地面から足の離れたアルヌイを貫かんとする。アルヌイは迫る木槍に対して体を捩ると、右の脇腹を通り抜けさせてそのまま脇で挟み込んで抑えつけた。



「一つ」


 小さくつぶやいたアルヌイは左手で腰から黒い短刀を引き抜くと同時、木槍へと突き刺すと布を裂くように刃を下へと降ろし木槍を切り落とした。落ちた木人の腕は一瞬にして灰になって霧の中に溶け込んでいった。木人は腕を切り落とされたにも関わらず、怯えも怒りの色も示さずにアルヌイの方を向いている。


 木人の切り落とされた腕の先から赤い花が咲き始めた。幾重にも重なりあった花弁が蠢いて伸びていくと木人の腕を形どり、再生させていた。アルヌイはそれをじっと観察し、何が行われたのかを認識すると左手に短刀、右手に異形の剣を構えた。


 アルヌイは見たままの事をただ受け止めていた。切っても治ってしまう。赤い花が木人の再生を助けている。怪物といえど切られれば治す必要があるのだとアルヌイは判断する。


「なら切り刻めばいい」



 ■



 木人だったものが、アルヌイの足元に散らばっていた。木片は赤い花を咲かすこともなく、灰になって霧へと還っていった。


 剣を収めたアルヌイはニエたちの後を追って、森の中を駆けていく。遠くから、黒魚の駆動する音が聞こえてきていた。急いで合流しなければ置いて行かれてしまうだろう。


 道中、回収部隊の死体が転がっていた。マスクが割れ、顔が露わになっている。目玉のあったところから赤い花が咲いていた。アルヌイが通り過ぎようとした時、「助けて」と繰り返される声が聞こえてきた。


「もう助からない」走りながらアルヌイは誰に言うでもなく呟いた。


 眼前に黒魚の船体が見えてきていた。まだ浮上を始めていない。恐らくはニエが自分を待ってくれているのだろうとアルヌイは考えた。簡易拠点のある黒魚周辺は静かだった。ニエも回収部隊になる以前はアルヌイと同じく戦いに身を置いていた。先ほどアルヌイが戦った木人程度であれば難なく処理できているだろう。



 そうして黒魚にたどり着いたアルヌイは異様な雰囲気を感じて周囲を見渡した。辺りにニエの姿も、もう一人生き残っているはずの回収部隊の姿も見えない。もう黒魚の中にいるのかと思い、アルヌイは黒魚に足を向けて、立ち止まった。


 黒魚の乗り込み口のそばに赤い花が咲いていた。赤い花は死者に咲く花だ。この世に現存するどの花とも違い、花弁の形は定まっておらず無数の形がある。総じてガヲケレナの花と呼ばれている。この花が咲いているということは、誰かがここで死んだのだとアルヌイに知らせていた。



 アルヌイは黒魚の中に歩みを進めて、呼びかけた。


「ニエ、まだ生きてるか?」


 すると、操縦室近くから呻き声があった。


「……アルヌイか」


「ひどいな」


 ニエの姿を見たアルヌイが言うと、ニエは「ああ、そうだな」と答えた。ニエの右腕から先と、左足が無くなっていた。傷口からは赤い花が咲いている。花は増え続け、ニエの体を包みこまんとしていた。


「アルヌイ」


 体を蝕まれつつあるニエが、掠れた声でアルヌイに呼びかけた。


「頼みがある」


「なんだ」


「その剣で、おれを殺してくれ」



 アルヌイは腰の剣を一瞥して、再度ニエを見た。ニエは今にも死んでしまいそうだった。それをどうして、自分の剣で殺してやる必要があるのか。死ぬという現実は変わらないというのに。


「どうしてだ」


 アルヌイは、ニエに問い返す。しかし、ニエからの返事は無かった。赤い花が四肢を覆い、内臓のあたりまで到達している。マスクの下のニエの呼吸する音も聞こえなくなっていた。


「ニエ、さよなら」


 息絶えたニエの遺体を黒魚の外へと運び出すと、アルヌイは黒魚を浮上させた。

 霧の大陸を抜けて、黒魚を操縦している間アルヌイは考えていた。




 ──なぜ、わたしはニエにどうしてなんて言ったのだろうか、と。


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