隣の人はよく柿食う人だ
ミステリー企画【春の推理2023】に参加するために書き下ろしました。
はたしてこれはミステリーなのか、怪しいところですが、楽しんでいただけると幸いです。
【1:日課】
私の住むアパートのキッチンは狭い。玄関から続く短い廊下に無理矢理はめ込んだような台所は、動き回ることすら億劫なほど手狭だ。材料や調理器具を広げると、すぐに隙間がなくなってしまう。
ワンルームに一人暮らし。贅沢がしたいわけではないけれど、料理が好きな私には、このキッチンだけはいただけない。だけど現状、引っ越しをする余裕はない。
胸の中でぶーぶー文句を垂れながら、今日も今日とて夕飯作りにいそしむ。
メニューはお手軽に作れる三品。豚の生姜焼きにコンソメスープ、それから好物のポテトサラダだ。
ありきたりだけど、ごちそうだ。
特にポテトサラダは良い。
カリカリに焼いたベーコンとフレッシュパセリに、ブラックペッパーをきかせたのが、最近のおきにいりだ。まだまだ研究の余地はあるけど、今日もそのレシピで作っていく。
気の早い私は、鼻歌なんか歌いつつ、お湯からあげたばかりのジャガイモを手に取った。
「あっつ!」
悲鳴をあげて、反射的にジャガイモを手放す。何食わぬ顔でコロリンと鍋の中に戻っていったふかしイモは、手が焼けるかと思うくらい熱々だった。
とんだ不覚をとったわね……。赤くなった手を流水で冷やす。涙ぐむ私を慰めるように、いつものアレがはじまった。
「生麦生米生卵」
開け放った窓から、風に乗って呪文のような言葉が流れ込んでくる。元気な声で溌剌と早口言葉を唱えているのは、隣の部屋に住む学生さんだった。
「庭には二羽ニワトリがいる」
水道の栓をしめると、入れ違いにまた声が聞こえてくる。痛みのひいた手を布巾でふきふき、私は耳をそばだてた。
アナウンサーか、声優か、はたまたシンガーか……お隣さんは声を使う職業を目指しているのかもしれない。時間帯はバラバラだけど、毎日毎日飽きもせず、ベランダに出て早口言葉を練習している。それもけっこうな声量で。おかげで大した面識もないのに、彼女の声はすっかり耳に馴染んでしまった。
「隣の客はよく柿食うカキだ」
今日は調子が良さそうだったのに、惜しいところで失敗してしまった。カキが柿を食う──それって、共食いじゃない? それとも海にいる方のカキかしら。それにしたって、とんでもない話になっちゃってるのは間違いないわね。一字違うだけでこれかぁ。
ふきだしそうになるのをこらえつつ、ジャガイモを再び手に取る。熱は冷めはじめたみたいで、火傷の心配はなさそうだ。ホッと一息ついて、今度は慎重に皮を剥いていく。
スルスルと順調に作業を進めている矢先、
「スモモも桃もももにょうにっ」
あ、噛んだ。
続く沈黙から、いたたまれない空気が伝わってくる。
「……」
黙り込んでしまったお隣さんにつられて、私も手を休める。なんとなく動けずにヒヤヒヤ様子をうかがっていると、
「スモモも、桃も、桃のうちっ!」
気迫のこもった声が、今度は完璧に早口言葉をそらんじた。
「よくできました!」と心の中で拍手を贈る。なんだかうれしくなった私は頬をゆるめ、意気揚々と調理を再開した。
……本当なら、直接賛辞を伝えられたらいいんだけどね。さっきも言ったけど、お隣さんのことはよく知らないの。
無愛想なのか人見知りなのか、顔を合わせて挨拶をしても返してくれないし、いつもそそくさと去ってしまう。話をする余地を与えてくれないのよね。まぁ、今日日珍しくもない話かしら。
……でもねぇ。必要以上に仲良くするつもりはないけど、ちょっぴりさみしい気持ちがある。せっかくご縁があってお隣に住んでいるのに、もったいない気がするじゃない。
だからといって、わざわざ引きとめて、無理に付き合わせるのもなにか違うのよね。あっちにはあっちの事情があるし、それで仲が悪くなっちゃったら最悪だもの。
うだうだと思考を巡らせている内に、いつの間にやらポテトサラダができあがっていた。早口言葉はもう聞こえてこない。カーテンが風に踊る音が、かすかに鼓膜をくすぐるばかりだ。
急に訪れた静けさの中、できたてのサラダを味見する。本日の出来栄えまぁまぁ。ぎりぎり合格ラインかな。
でももう少し、コショウを足したほうがいいかも。
【2:事件発生】
明くる日の朝。家から出ると、ばったりお隣さんに出会した。彼女は動きを止めて、まばたきもせずにこちらの様子をうかがってくる。まるで野生動物だ。
「おはよう」
期待せずに声をかける。きっと今日も逃げられるわね。潔く諦めて、早く職場に向かうとしましょう。
微動だにしないお隣さんへ、背を向けようとしたときだ。
「あっ……」
と、漏れ出た消え入りそうな声が、私を引き留めた。今この場には私とお隣さんの二人しかいないのだから、声の主は考えるべくもない。
驚きと歓喜をないまぜにした、おかしな顔で振り返る。私と目が合ったお隣さんは、全身を真っ赤にして小刻みに震えだした。
「お……お、おっ……」
小さな円を形作った唇から、言葉にならない声がポロポロ落ちていく。まるでしゃっくりしてるみたいに、お隣さんは短い間隔で肩と頭を上下させた。可哀想なくらいに緊張している。
大丈夫かしら? 心配になってきた私は眉をひそめ、なにか言葉をかけようと息を吸う。それがいけなかったのかもしれない。お隣さんの顔が、赤から青へと一瞬で塗り変わった。
「ごめんにゃさいっ!」
お隣さんは勢いよく頭を下げる。大きな声が、朝のひやりとした空気を震わせた。
「ごめんなさい」ですって? 見開いた目をパチクリさせる。困惑し、アクションを起こせない私の隙をつき、お隣さんは脱兎のごとく走り去っていった。
「え?」
固く閉ざされた扉の前に、ぽつねんと取り残された私は、お隣さんの駆けていった方向を呆然と眺めることしかできない。彼女の思考回路が、まったくと言っていいほど理解できなかった。
でも多分、謝らせてしまったのは私が原因よね? あの子とってもシャイみたいなんだもの。
なんだか釈然としないけど、反省した私は、今回の失敗を心に深く刻み込んだ。
【3:決意】
さて、夜になった。
「生麦生米生卵っ!」
今日も今日とて夕飯作りにいそしむ私と、早口言葉を唱える隣人。
「庭には二羽ニワトリがいるっ!」
よくわからないけれど、いつもより気合いが入っているみたい。これまでにないほど大きな声で、なおかつキレがいい。なにか鬼気迫るものを感じる。
「隣の客はよく柿食う客だっ!」
一方の私は、今朝のことを引きずって、一日中モヤモヤしている。そんなだから考えこんで、カレーを作りすぎてしまった。
「スモモも桃もっ桃の内っ!」
今日は一度もミスがなかった。早口言葉を言い終えて、ゼェゼェと肩で息をするお隣さんの姿が頭に浮かぶ。
どうしようかしら? お皿を抱えて考える。視線の先には、五日分くらいのカレーがある。だけど頭にあるのは今朝のこと。
ぐぅるぐぅると思い悩んでいる内に、とある言葉が浮かんできた。
「……なせばなる、なさねばならぬ」
何事も。
嫌がられるかもしれないけれど、明日問いただしてみよう。理由もわからずに謝られっぱなしじゃきまりが悪いし、なによりやっぱり仲良くしたい。早口言葉のこともついでに聞けたら、万々歳じゃない?
「やってやれよね」
そうと決まればもう悩むことは何もない。今すべきことは、空いたお腹を満たすことだ。「腹が減っては戦はできぬ」と言うしね。
皿の上に山のようにご飯をよそい、これでもかとカレーの滝を浴びせかける。福神漬けも忘れずに、多すぎるくらい盛る。白に金茶、赤まであわさってなんだかおめでたい感じにしあがった。
「いただきます!」
はてさてお味の方は……うーん。今日はギリギリ赤点!
【4:解決】
たらふくカレーを食べて、胃腸薬にお世話になった日の翌朝。タイミングをみはからって家を出た。狙い通り、玄関から顔を出すお隣さんとバッチリ目が合う。
「おはよう」
にこやかに挨拶をして、じりじりと距離を詰める。お願い、怖がらないで。私は悪い人じゃありませんよ──そんな雰囲気が出ていたらいいな。
笑顔で近付く私を見て、お隣さんは「あっ!」と声をあげた。昨日の失敗が脳裏をよぎり、足をピタリと止める。やらかしてしまったかな? 脂汗がにじみ出る。
だけど起こったのは、うれしい誤算だった。
「おはよう、ございますっ」
お隣さんが、ついに挨拶を返してくれた!
詰まりながらも絞り出された声を受けとった瞬間、体の内側から喜びがわきあがった。同時にお隣さんも小さくガッツポーズをする。
「やっと言えた!」
「やっと聞けた!」
私達は時間も忘れて、記念すべきこの時を子どもみたいに喜びあった。
その後、お隣さんには幼い頃から吃音のコンプレックスがあることを聞いた。そのせいで人前で話をすることが苦手であり、自然と内気になっていったという。高校までは親兄弟や友人達に助けられなんとかやっていたそうだけど、大学へ進学した今は地元を離れて一人。「自己主張ができないままでは、生きていけない」と悟った彼女は、コンプレックスを克服しようと自己流の訓練をはじめたそう。それが毎日の早口言葉の練習だったというわけ。
努力の方向性がちょっぴりズレているような……でも結果オーライなのかな。まだぎこちないながらも、会話してくれるようになったんだもの。
「い、今までちゃんと、挨拶、返せなくてごめんなさいっ」
「謝らないでよ。私の方こそ、事情も知らずに怖がらせちゃってごめんなさい」
「いえいえいえっそんな!」
気にかかっていたことを謝罪すると、お隣さんは首を振る。ブンブンブンブン、もげそうなほどの勢いで。少しオーバーに感じるけれど、これもご愛嬌かな? 多分その内慣れるでしょうし、そしたら自然なリアクションをしてくれるようになるはずよね。
「あのっ!」
「なぁに?」
一生懸命な姿が微笑ましくて、目を細めた。年長者ぶって見守る私を、お隣さんは上目遣いにうかがってくる。
「昨日の晩御飯、カレーでした?」
「どうしてわかったの?」
驚いた。食事の話なんてちっともしなかったのに、どうしてわかったのかしら?
首をかしげて見せると、手探りに言葉を選びながら名探偵はおずおずと答えを提示した。
「いつも、その、……おいしそうなにおいが、漂ってきてて。それで昨日は、カレーのにおいがしたから」
とても単純な答えだった。ついでに私も単純だ。
あら、いやだ。この子ったら今「おいしそう」って言ったわよ。
意識しているのはこちらの方ばかりだと思っていたのに、そんなことを言われたら、期待せずにはいられないじゃない。
もしかして、もしかするんじゃない? なんて。
「カレー好き?」
下心を隠しもせずに、だしぬけにたずねてみる。返ってきたのは、花が咲くような笑顔とはずんだ声。
「好きですっ!」