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作者: 森内哲

 年の瀬迫る冬の日、山口統理(とうり)は久々に近所のスーパーマーケットへ足を運んだ。妻の雅子に雑煮でも作ってやろうとふと思い立ったからだ。

 まだ年は明けていないが、別に構わないだろう。この寒さならやはり温かいものを腹に入れたい。餅は大量に残っている。なるべく色鮮やかな具材を入れ目でも楽しませてやりたいと思った。


 年末のスーパーは意外にも人が少なくがらんとしていた。一昔前ならともかく、今時は年末年始だからといってずっと休業する店は少ない。どこの家庭も大晦日を前に食材をわざわざ買い込む必要がないので、寒い中スーパーへなど来ないのだろう。

 しかし理由はおそらくそれだけではない。家を出てからここへ来るまでの間も感じたが、山口の住む地域は過疎化が進行し、子供がめっきり減ってしまった。街の人口自体ずいぶん減っただろう。子供が好きな山口にとって寂しいことだった。


 定年したら自宅の和室にでも近所の子供を集め、習字教室かそろばん教室をするのが夢だった。どちらも幼いころから習っていたので、子供に教えるくらいの実力はある。しかし自分が定年するまであと30年。その頃この地域に、子供はどのくらいいるだろう。


 スーパーで雑煮の具をいくつか買い求めた。小松菜の緑に椎茸の黒。海老に一瞬心が動いたが、雅子も俺もあまり好きじゃないので赤は人参。それに餅の白。

 緑、黒、赤、白。色のバランスはこれでいいだろう。鶏肉でも入れたほうがいいのだろうが、それは年が明けてから改めてつくる雑煮に入れることにしよう。


 選んだ食材を買い物カゴに入れ、レジへ行く前に雅子の好きな羊羹を1本入れた。以前買って帰ったら、「そんなの見たら食べたくなるじゃない。また太らせたいの?」と笑いながら抗議していた。今日も口をとがらせて文句をいうかもしれないが、年末だし少しくらい甘いものを食べてもいいだろう。

 それに実際のところ、山口には妻が太ったようにはとても見えなかった。この1年ほどまるで変わらないスリムな体型を維持している。それを言うと、「見えないところが太ってるの」とリスのように口をとがらせるのだが。


 寒さに震えコートの前を抑えながら帰り道を歩いていると、うちから3軒隣に住んでいる桐原さんが歩いてくるのが見えた。


 「桐原さん、どうもこんにちは」


 「あら、山口さん、こんにちは」


 小柄な彼女が笑顔を見せてこちらへ駆け寄った。赤いマフラーがよく似合っている。雅子と同い年の彼女にはよく世話になっている。彼女は勤め人だが、結婚を機に家庭に入った雅子とたまに旅行に行ってくれ、気分転換をさせてくれている。


 「お買い物ですか?」


 「ええ。たまには雅子に雑煮でも食べてもらおうかと思いまして」


 そう言って薄緑色のエコバッグを掲げると、桐原さんは何故か引きつったような笑みを見せた。手袋をしたまま目尻を一度ぬぐった。


 「そうですか。最近どうですか? 元気でやってらっしゃいますか?」


 「ええ、おかげさまで。なんとかやっています」


 「あの……」


 桐原さんがマフラーで口元を隠し、周囲を一度うかがってから切り出した。


 「ご相談したいことがあるんですけど、今度お時間頂戴できませんか……?」


 「雅子にでなく私にですか?」


 「はい、統理さんにです」


 下の名前を呼ばれて妙に動揺した。背がやや高めで、いかにも仕事のできる女性といった雰囲気の雅子とは対照的に、桐原さんは雛人形のように可愛らしい女性だ。対照的な2人だが、どちらも魅力的な女性だ。

 といっても浮気をするつもりなど欠片もない。俺は中学生のころ雅子と付き合い出して以来、他の女性と手をつないだことさえない。


 「構いませんよ。あとでご連絡します。一応雅子に伝えておかないと、桐原さんといえども女性と勝手に2人で会ったらたぶんすごい怒りますから」


 実際職場の女性と2人でランチをとったことにさえ、頬を膨らませたことがある。もちろんその女性となにかあるわけではないし、雅子も本気でそんな心配をしてるわけではない。ただ自分の知らないところで自分の知らない女性と俺が食事するのが、心情として受け入れがたいらしい。

 嫉妬深いというより、愛情の裏返しだと思っている。文句を言うだけ言えば満足したようだし、包み隠さず話せば別に怒ったりしない。


 「――――では、あとで連絡お待ちしていますね」


 ぺこりと頭を下げて桐原さんは去っていった。一体何の話だろうか。まさか本当に不倫の話でもないだろう。


 『杏奈に似合いそうな男の人、あなたの職場にいない?』


 雅子がそう尋ねたのは何年前だっただろうか。ひどい失恋をしたらしい親友を気遣い、新しい出会いで傷を癒してもらおうとしたのだ。

 桐原さんにはなにかと世話になっているので俺も協力し、一応俺たち3人を含めて10人でバーベキューをした際に同僚を紹介したことがある。そいつの方は結構本気になっていたのだが、肝心の桐原さんの方が歯牙にもかけない様子で無駄に終わったのだが。


 その同僚はまだ独身だ。もしそういう相談なら改めて紹介してもいいだろうか。いい奴だし女遊びもしない。年収だって苦労させるような額じゃないはずだ。結婚相手としては有料物件なのにあいつが未だ独身なのは、いわゆる女性恐怖症らしく女性と2人きりでは会話が続かないかららしい。

 そんなことは一緒にいる時間が長くなれば次第に解消されるだろう。桐原さんには悪いがあいつのコミュ症に、少しの間耐えてくれればと思う。


 「ただいまー」


 『おかえり、遅かったね。寄り道でもしてた?』


 家に帰りつき声をかけると、雅子がどこからか声を返した。声はすれども姿は見えず。手の離せない作業でもしてるらしい。


 「帰りに桐原さんに会ってちょっと立ち話してたんだよ」


 『杏奈なんて?』


 「なんか俺に相談があるらしい」


 『あー……』


 「なんか知ってるのか?」


 マフラーとコートを玄関脇に置いているハンガーポールに無造作にかけた。


 『直接聞いた方がいいと思うな。きっといい話よ』


 「なんだよもったいぶって」


 買ったものを入れたエコバッグを持って台所へ向かい、さっそく雑煮を作り始めた。



***



 30分後、できあがった雑煮をお盆にのせて食卓に運んだ。


 「さ、熱いうちに食べようぜ」


 席について雅子を促す。


 『あら、私の分まで作ってくれたの?』


 「なんだ、まだダイエット中だったか? じゃあ餅だけ抜こうか?」


 すると雅子がなんでもないことのように言った。


 『あなたまた忘れてたのね。私()()()()に死んじゃったでしょ?』


 驚いて顔をあげたが、そこに雅子の姿はなかった。俺の置いた雑煮から、湯気が立ち上っているだけだ。色鮮やかな具材を入れたはずの雑煮が白と黒の2色にしか見えない。世界から色が消えたようだった。


 幻と会話するのは何度目だろう。初めに見たときは幸福な幻想だと思ったが、いつしかそれは幻想ではなく現実のようになり、俺は雅子が本当に死んだのかわからなくなっていった。

 俺がおかしくなるたび、こんな風に幻想の雅子が俺の正気を取り戻させる。


 顔を落とし、雑煮を見つめた。つゆに顔がぼんやりと映し出された。ずいぶんやつれている男だ。それが自分の顔であることにしばらく気づかなかった。


 「そっか……、そうだったな……」


 『ごめんね。あなたの子供産んであげられなくて……』


 雅子は半年前に生まれるはずだった赤ん坊と一緒に逝ってしまった。いくら医学が進歩しても、出産が命がけの営みであることに変わりはない。知っていたつもりではいたが、自分にも雅子にも関係のない話だと思っていた気がする。


 雅子がいないことが受け入れられず、何度も2人分の食事を作った。俺がおかしくなるたびに、幻想の雅子が俺の正気を取り戻させる。


 『ねえ、あなたのお雑煮、私もやっぱり私も食べたいわ。お供えしてもらってもいいかしら?』


 いつまでも雑煮に手をつけない俺を哀れんだのか、雅子の声がやさしく促した。


 「うん……、うん……。今もってく」


 立ち上がろうとするが、力が入らない。体が石のようだ。ふわりと柔らかい香りがし、誰かに後ろから抱きしめられた気がした。


 『ねえ、あなた』


 耳元で雅子の声がささやいた。


 『杏奈はね、あなたのことが好きなのよ』


 「そんなこと言われても、俺には雅子が――」


 『いないわ』


 きっぱりと言い切った。


 『私はもういないの。いい加減受け入れて』


 息の詰まるような現実に、唇を噛んだ。目頭が熱くなる。わかってる。雅子はもうこの世にいない。けど……。


 『あなたがそんなじゃ私いつまでたっても成仏できないじゃない。私を呪縛霊にする気?』


 いっそのことそうなってほしい。そうすればずっと一緒に……。


 『言っておくけど呪縛霊になるのって辛いのよ。現世は死んだ人間がいちゃいけない場所なのに無理して留まることになるから……』


 涙がぼろぼろ零れ落ちていく。


 『ね、お願いだから杏奈と一緒になって。杏奈が相手なら私も安心できるから。いいね? 約束よ? 私はもういくわね……』


 雅子の声が遠くなっていった。思わず振り返り引き留めようとした。


 「待って!」


 しかし伸ばした手は何もつかまなかった。そこには誰もいなかった。幻は幻。俺の作り出した妄想に過ぎない。

 幻を引き留めようと手を伸ばしたせいで、バランスを失い床に転げ落ちた。食卓の雑煮がひっくり返り丼の割れる音がした。

 目の前に転がってきた破片の一つを拾い、思い切り握りしめる。鋭い痛みを覚え手のひらを開くと、鮮やかな赤い血液が流れ落ちた。赤い血が雑煮のつゆと混じり床に広がっていく。雑煮はとうに冷えていたらしく、湯気はたっていなかった。


 俺は何を考えているんだろう。自分の妄想の雅子に、桐原さんと再婚するように言わせた。まるで雅子を忘れることを正当化するかのようだ。

 そんな自分に吐き気がした。まだ()()()()たっていないのだ。それなのに妻を忘れ、別の女性と一緒になりたがっているのか。


 俺はもう一度破片を握りしめた。だがどれだけきつく握っても痛みは感じなかった。

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