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今日も死ねない

作者: 傀儡納言

眩しい西日が差し込む病室の窓に目を向けると、烏が三羽、ゆっくりと僕から遠ざかっていくのが見えた。

茜色の大空に、彼らが纏う漆黒の羽根はよく映えた。優雅に空を舞う彼らを、僕は羨ましく思った。彼らを見ていると、自分の名前がなんだか申し訳なく思えてくるほどだ。


彼らをもう少し近くで見たいな、とふと思った。


僕は腕から点滴の留置針を取り外し、人の往来がないことを確認して病室を抜け出した。

このドキドキする瞬間が快感で、癖になりそうだ。友達の消しゴムをこっそり隠して、友達が必死に探しているのを横で見ている時と同じ気分だ。

エレベーターはリスクが大きいから、階段で行くことにした。自分の病室が七階でよかった。屋上へ行くには階段で一つ上に上がるだけでいい。僕は物音を立てず、ひたひたと一歩ずつ階段を上がった。

屋上の入り口は自動ドアになっており、誰でも出入りが可能になっている。屋上は十五メートル四方で、ベンチや机が点々と設置されている。入り口の両サイドには花壇が設けられており、名前は知らないが色とりどりの花が綺麗に咲いている。

自動ドアを抜け、屋上を見渡してみたが、今日いたのは車椅子の爺さん一人だけだった。出入り口のすぐ脇に設けられた木製の机を利用して、古く黄ばんだ小説を静かに読んでいた。

僕は爺さんを一瞥し、大きく息を吸い込んだ。外の空気は病室内に比べて何倍も澄んでいた。

心音が厭なぐらいうるさかった。

僕は爺さんの横を通り過ぎて、さっきの烏が飛んでいた方角の空に向かって、ゆっくりと歩を進めた。

そして、転落防止用の鉄柵に触れた。

暖かい夕日に比べて、鉄製の柵は風のように冷たかったので驚いた。空を見上げたが、もうそこに烏はいなかった。何処へ飛び去ってしまったのだろう。僕が看護師さんの目を盗んで、スリルを味わいながらここまで来たというのに。

僕は屋上に来た目的が無くなってしまい、仕方なく広大な街を一望した。

歩行者の往来やビルの明かりが模型のように感じられた。高い場所から地上を見下ろすと、なんだか神様にでもなったような気分になる。

僕は右手で拳銃の形を作り、地上を行き交う人々に照準を合わせた。左目を瞑り、サラリーマンや学生、家族連れなどを標的にして、「バーン」という効果音とともに弾を打つふりをした。ゲームセンターでシューティングゲームをしているみたいで、いい暇潰しだなと思った。

当然、ゲームと違って標的が死ぬことはないので、あまり興奮することなくすぐに飽きてしまった。

いよいよすることが無くなり、何気なく鉄柵の高さを目視で測った。ざっと三メートル弱かな。


なーんだ。簡単に乗り越えられるじゃん、と思った。


僕はそこで入り口を振り返った。本を読んでいた車椅子の爺さんはもうそこにはいなかった。今は、屋上に、僕一人だけ。僕は新しい悪戯を思いついた時みたいにわくわくした。

僕は鉄柵に向き直り、もう一度、小さなパノラマに目を落とした。

そして目を閉じ、深呼吸をして想像した。

大通りの歩道を歩いていたら、いきなり上からパジャマ姿の少年が落ちてきて、頭から血を流して既に心肺停止の状態。歩行者は慌てふためき、少年の意識を確認する者や救急車を呼ぶ者、ただ傍観することしか出来ない者もいるだろう。街は混乱し、病院内も騒然として、病院のエントランスには報道関係者が集まり、院長はカメラの前で頭を下げる。次の日の地方紙の一面ぐらいには載るだろうな。そして警察が事件性の有無に関する捜査に立ち入り、自殺の筋が濃厚だと判断され、処理される。二週間もあれば事件のことなど忘却の彼方へと葬られ、また通常運転に戻るだろう。

僕は鉄柵を掴み、足と体幹で態勢を固定しながらひょいひょいとよじ登った。気持ちが昂っていた。しまったな。こんなことをするなら、柵を掴みやすいようにラバーの手袋でも持っておけばよかった。

半分ぐらい上ったが、僕はすっかり腕が疲れてしまい、柵から手を離した。体勢を崩しかけながらも屋上に着地し、冷えた両手をこすってパジャマのポケットに突っ込んだ。心臓の鼓動がバクバクとうるさかった。緊張や興奮によるものではなく、疲労によるものだった。額に汗がにじみ、息切れもして、ついには眩暈までしてきてしまった。


こんなことで疲れるなんて、この身体も随分と弱っちくなったな。


身体の衰えを痛感し、情けない思いがこみ上げて思わず笑ってしまいそうになる。やがて眩暈が止み、呼吸も落ち着いてくると、視界が明瞭になってきた。ふと頭上に気配を感じ、僕は鉄柵の上端を見上げた。


そこには烏が一羽だけ、止まっていた。


羽音や鳴き声などは一切聞こえなかったので、存在に全く気が付かなかった。いつからいたのだろう。烏はじっと僕を見ていた。漆黒の翼に、宝石のように艶やかな黒目。この世で一番美しいと思った。僕は静かに、烏と目を合わせた。烏は「どうしたの?」とでも言うように首を傾げつつ、僕から目を離さない。僕も問い掛けるように首を傾げてみる。烏と僕は、その姿勢を保ったまま、暫くお互いに見つめ合っていた。


「毎日毎日、あんた本当に暇なのね」


女性の、呆れたような低い声が聞こえてきた。

僕は烏が喋ったのか一瞬思ったが、そんなことあるはずがないとすぐに気づいた。烏と見つめ合いながら耳に神経を集中させると、その声は真下の病室にいることが分かった。僕の病室の、三つか四つほど隣の部屋で、窓を開けているらしかった。


「毎日見舞いに来れて、暇人に見えてしまうぐらい、職場での俺は有能だってことな」


男性の軽い声も聞こえてきた。恐らく、女性患者のお見舞いにきたのだろう。しかも毎日来ているらしい。お互いの口調から二人の関係は夫婦かカップル、もしくは姉弟だろうか。僕は少し悪い気がしたが、二人の会話に耳を傾けてみることにした。


「で、体調はどう?」

「昨日の今日でそんな激変するわけないでしょ」

「おいおい、こう見えても俺は意外にも莉緒のこと心配していてだな」

「そりゃどうも。あたしの性格をよくご存じの君に、過度に心配される筋合いはありません」

「お前本当に病人かよってぐらい余裕だよな。とっととその腫瘍摘出して、退院しちまおうぜ」

「それは本当にそう。さっきCTだかMRIだか受けてさ、やっぱり卵巣に腫瘍があるらしいんだけど、全然痛くも痒くもないし、体調も悪くならないから、本当にあるのかどうか疑うレベルだわ」

「その調子なら全然悪性じゃなさそうだな。あ、そうそう。頼まれてた着替えと暇潰し用の漫画一式持ってきた」

「おっ、さんきゅー。さすが私の召使い兼彼氏。気が利くねー」

「せめて彼氏兼召使いって呼んでくれないかな。彼氏が副業みたいじゃねぇか」

「あはははは。これからの入院生活に備えて、やっぱ漫画は欠かせないなー。あと、そこにおいてある着替え、洗濯お願いできる? 下着と靴下は他の服と分けて洗ってね」

「はいよ」

「ちなみに澪斗は、その下着、今夜の……」

「うるせーわ黙れ」

「あれー?あたしまだなんにも言ってないんだけどなー」

「あー、はいはい。分けて洗って、また持ってくるよ」

「うん。お願いね」



「莉緒」

「うん?」

「もっと、俺を頼れよ。俺に出来ることなら、何でも……」

「もう十分頼ってるよ」

「でも!!だって莉緒は…」



「んふふ。まぁまぁ澪斗、落ち着いて。ねぇ聞いて。あたしは本当にあなたに救われてるわ。こうして、毎日見舞いに来てくれて、くだらない話をして沢山笑って、あたし、本当に幸せなの。あなたは大したことじゃないって思っているかもしれない。でもね。今日も明日も、その次の日も、あなたとこういう何気ないやり取りができる。そう思うだけで、昨日を生き抜いた甲斐があるのよ。あなたがいるおかげで、今日も死ねないな、って心の底からそう思えるの」



「莉緒。俺、実は知っているんだ」



「ええ。何となく、もしかしたら気づかれているかな、って思ってた」



「莉緒。好きだ」



「突然改まってどうしたの。そんなこと知ってるし、あたしだって澪斗のこと好きよ」



「莉緒」



「そんな泣かないでよ。なんだか笑えてくるじゃない」



「また明日。見舞いに来るから」



「ええ。明日はあたしの部屋からメイク道具を一式持ってきてもらえる? あたしの召使いさん」



「はぁ、かしこまりました。莉緒お嬢様」



「あはは。お願いね」



二人のやり取りが終わった。扉が開閉する音が聞こえた。男――澪斗といったか――が病室から退出したのだろう。二人はとても仲が良さそうだった。そんなことをぼんやりと思った。


相変わらず視線が合っている烏から目を逸れそうとした時、頬に水滴が伝っていることに気づいた。


僕は泣いていたのだ。赤の他人の、僕には全く関係のない会話に、涙を流していたのだ。

女――莉緒といったか――は今、生きることを心から楽しんでいる。余命が残り僅かであると悟りながら。


対する僕はどうだ。さっき僕は何をしようとした。病室の窓から見えた烏を、もっと近くで見たくて、でも見れなくて、それから、それからなんとなく、僕は。

僕は自分の行動の浅はさを痛感し、俯いた。目から溢れだした宝石のように透明な涙は、零れて屋上に敷き詰められたコンクリートブロックを濡らした。僕は声をあげて泣いた。


烏は相変わらず「どうしたの?」とでも言うように首を傾げている。


入口の方から、「ツバサ君!こんなところで何してるの!」という看護師さんの怒号が聞こえてきた。


その怒号に反応したのか、ずっと僕を見ていた一羽の烏は大きな黒い翼を広げ、勢いよく夕空の彼方へと飛んで行った。

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