第5話
「ごめんね、イノリ。痛かった?」
「ううん、大丈夫だよ」
正門を抜けて二人きりになるとソフィヤは心配そうに僕の体を上から下まで見てくる。
「可愛くなったね、イノリ」
「え? そう?」
「うん! なんというかお姉さんってカンジ!」
「えへへ、ありがとう」
う、嬉しくない。
けど、僕は今、女の子なんだ。
嬉しそうに! 嬉しそうにしないと!
「女の子でも好きになっても良いのかなあ」
「うん? なんか言った?」
「ううん! なんでもない!」
ソフィヤは聞こえるか聞こえないかの小さい声で呟いた。
それでぶんぶんと頭を振った。
「そう?」
「うん! イノリ、この後、時間ある?」
「時間? あるよ?」
「本当⁉ じゃあうち行こ?」
僕はソフィヤの家に招かれた。
そしてソフィヤの家は僕の家の隣の新築の一軒家だった。
「お隣さんだったんだ……」
「うん! そうだよ! パパにお願いしたの!」
「そうなんだ、ミロおじさんに」
ソフィヤのお父さんはソフィヤの苗字の一つでも来ているミローノヴナはソフィヤのお父さん、ミロから来ている。
ソフィヤに限らずロシア人の姓名の構成は父親の名前を入れるものらしい。
日本人の感覚としてはあんまり馴染みがないけど、父親の名前が入るのはなんだか素敵な気がした。
「うん! パパ、イノリに逢いたがってたよ!」
「ミロおじさん、逢いたいな」
「うん!パパも喜ぶと思うよ!」
僕は──ソフィヤの家族みたいに家族と仲が良いことはなかった。
妹以外の、両親とは家族仲は良くない。
だから少しソフィヤが羨ましかった時期も昔はあった。
「イノリ?」
「うん? どうかした?」
「……うん、変な顔してた」
「そ、ソフィヤ?」
ソフィヤは左手で僕の右手を掴むと手を繋いできた。
柔く繋いでくるというわけでもなく少し力が入って、ソフィヤの手のぬくもりがダイレクトに伝わってきた。
「イノリはひとりじゃないよ? わたしがついてるからね!」
「……うん、ありがとう」
ソフィヤは笑顔で言った。
それに僕は笑顔で返した。
「ねえ、イノリ?」
「うーん? なに?」
「イノリは──ううん、やっぱりいい……」
「え? なになに? 気になるんだけど」
「それは……あとで訊くね?」
ソフィヤはじっと僕を見て何かを聞きたそうにしていた。
何かを言いそうになっていたけど言わずに口をつぐんだ。
「あとで……ならいいけど」
そうこうしているうちに僕とソフィヤは、ソフィヤの家の玄関前まできた。
「さあイノリ、上がって上がってー」
「お邪魔します」
ソフィヤは玄関ドアを開けると嬉しそうに僕に手招きして家の中に入るように促した。
それに応えるように入ると玄関からリビングに通じるドアが見えた。
「イノリ! わたしの部屋はこっちだよー!」
「え、ちょっとソフィヤ!」
ソフィヤは僕が靴を脱いで玄関に上がると少し強引に手を掴んでリビングを抜けると階段を上がっていき、いくつかの部屋を素通りしてソフィヤの部屋と日本語と外国語で描かれたドアネームプレートがドアの中心より少し上辺りに彫られていた。
その部屋の前でソフィヤは立ち止まった。
「じゃじゃーん、この部屋がわたしの部屋だよ!」
「入っていいの?」
「もちろんだよぉ! 入って入ってー」
「おっと……そんな押さないで。ちゃんと入るから」
効果音付きで部屋を紹介するソフィヤ。
僕が問いかけるとソフィヤはドアノブを回して、ドアを大きく開けて固定するとソフィヤに背中を押される形で部屋に入る。
「わあぁ、ここがソフィヤの部屋――え?」
「……かわいいよね。大好きっ!」
「そ、ソフィヤ? こ、これって」
部屋に入ると目に飛び込んできたのは10年くらい前の僕の写真だ。
しかも一枚や二枚じゃない。
部屋の壁中に百枚じゃ収まり切らないほどの僕の写真がびっしりと隙間なく貼られていた。
ソフィヤが何に対してかわいいと言ったのかはわからない。
どんな表情をしてるかも。
ただ声は怖いくらいに明るかった。
どんな顔をしてソフィヤは言っているのか僕は怖くて振り向くことができなかった。
そして僕がソフィヤの言った言葉の意味を考えようとしたとき、それを遮るようにバタンと扉が閉じられる音がする。
そのあとすぐにカチッと部屋の鍵が内側から掛けられる音もする。
そして部屋の扉を背にしながらソフィヤは呟いた。
「……やっと、ふたりきりになれたね。イノ」