5-11
病室に一人佇む。
ひま。
身体はもうすでに治っている。事前に確認した通り、後遺症も一切ない。一晩寝たらすっきり。すぐにでも以前と同じように動くことができる。けれど、数日は絶対にここから出るなとアースに厳命されてしまった。
動かないのは私の性に合わない。病気にも怪我にも悩まされない私の身体は、行動してなんぼ。ベッドにずっと寝転がっているなんて、今までの人生で一度もなかった。まだやりたいことがいっぱいあるから、寝てばかりもいられない。
私はそっと、脚をベッドの外に出した。床について、そのまま抜け出せないかななんて画策。私の浅ましい行動は、目ざとく見つかってしまった。
「マリア。駄目よ」
顔を膨らませて私の前に立つデリカ。私は足をベッドの中に戻した。
「もう治ってるのよ。本当よ。だからもう外に出てもいいでしょう?」
「ダメ。駄目ったらダメ」
頑として首を縦に振らないデリカ。今日のお目付け役は彼女で、とっても頑固だった。
「今日は何があってもマリアをここから出さないから。マリアが大丈夫だと言っても、絶対安静なんだからね。貴方が瀕死の状態だって聞いて、私がどんな気持ちだったかわかる?」
「……いいえ」
「心臓が引きちぎられたような、頭を砕かれたような、そんな気分だったの。あんな思いは二度としたくない。病み上がりのマリアにできることなんてないの。だから絶対にどかないわ」
アースからお目付け役を仰せつかった彼女の眼は、使命感に燃えている。
「でも、結局トリエラは料理に毒を入れていなかったのよ。それに、彼女はもう王は目指さないと公言しているし、私を脅かす存在ではないわ」
「口約束だけかもしれないじゃない。私はあまりトリエラ様と話したことはないけれど、周りの評判は悪いし、何があるかわからないわ。トリエラ様の他にもファンド様だっているし、安全とは言い切れません」
「誰が相手でも私は負けないわよ」
「そういう問題じゃないの」
また言われてしまった。色んな人に言われてしまう。じゃあどういう問題なんだろう。
「マリアが無理をしてしまうのも、周りのことを考えて過ぎてしまうのも、私は知っているわ。でも、人なんだからずっとそれじゃあ疲れてしまうでしょう。休む時が必要なの」
「……」
私は自分で弁が立つ方だと思う。客観的に見て、私は口論で中々負けはしない。理論でも感情でも、相手に合わせた戦い方ができる。
でも、今回この時は勝てる気がしなかった。何を言っても、ベッドの上に寝転がされそう。
「わかったわ。私の負け。デリカのためにも、ベッドの上で大人しくしているわ」
デリカは華が咲くように笑った。
「良かった。もう危ない真似しちゃだめだからね」
「しないしない」
「というか、マリア。あのね、アース様の侍従なんかやめてしまって、私の傍で仕えたら? 護衛兼侍従で、私の傍にいてよ。私は絶対に危ない目に逢わせたりしないから」
デリカは笑顔になって、私の手を握ってきた。微笑んではいるが、眼は本気だった。
「どう?」
「それはできないわ」
「なんで? 私のこと嫌い?」
「いいえ。デリカのことは大好きよ。でもね、私にはやりたいことがあるの。それを叶えられるのは、きっとアース様だけだから」
アースは前しか向けない阿呆だと思うし、融通が利かない正直者。
でも、嘘が付けない。私とは真逆で、正直に真っすぐに生きてきた人。だから、私のような欺瞞に塗れた存在ではできないことも、やってのけると思う。彼になら、できると思う。
私と彼。光と影。二人なら、理想を体現することができると思う。
「随分とアース様を買っているのね。少し妬けちゃう」
「何言ってるの。私が好きなのは、デリカなのに」
「ふふ、ありがとう」
いちゃいちゃ。デリカは可愛いわね。
デリカはその後、昨今の議会の様子を語ってくれた。目下の話題は、トリエラのこと。
時期国王を決める争いについて、基本的には他人はノータッチ。水面下で勝手にやってくれという話だけど、大事になってしまっては話が別。特に今回は多くの有識者の集まる式典での事件。被害者である私が庇ったとしても、トリエラの疑惑は晴れ切らない。罪をなかったことにはできず、とりあえずは自室での謹慎ということになったらしい。
アースへの執拗な攻撃についてもやり玉に挙げられ、それが周りにも害を及ぼしているということで、トリエラは王にはふさわしくないと、王自ら彼女の王位継承権をはく奪。
私の想った通りの結果。
これでトリエラの話はおしまい。彼女はグレーの犯人として、一時は表舞台に上がれない。ただし、紛いなりにも王女であるし、数年もすればある程度の役職にはつけるでしょう。王位継承権を失ったことでもう他の王子と争うこともないから、長生きできそうだしね。
私は彼女を地に堕とした。因果応報、しっぺ返し。
私は彼女を救ってあげた。これは貸。とっても大きい、ね。
「私は絶対トリエラがやったと思うんだけど、庇ってあげるなんて、マリアは優しすぎるわ」
ぷんぷんと怒るデリカ。
「その気持ちがとっても嬉しいわ。結果的にトリエラ様は王の芽を失い、アース様が王になる可能性が上がったし、私は嬉しいのよ」
「マリアの死とアース様の王座は釣り合わないわ。マリアは死んではダメなのよ」
多分、皆が思ってくれていること。
デリカ以外にも、たくさんの人が見まいに来てくれた。
王宮にいる元Cクラスの子たち。私が愛想を振りまいた王宮侍従の子たち。すれ違いざまに笑顔を向けた議員たち。共に野望を語り合ったアース陣営の人たち。
全員、心配そうに、安心したように、私を見舞ってくれた。彼らの瞳は一様に私をアース様を救った勇者として、敵すら庇う聖女として、映している。
嬉しい。理想通り、考え通り。私がやってきたことが実を結んだような気がして、楽しい。こんな気持ちになれるならたまには病人になってもいいかななんて思えた。
デリカははっとした顔になって、
「あ、もう行かないと。ついつい話しすぎちゃった。ごめんね、病み上がりに。私はもう帰るけど、いい、マリア。私が帰っても、絶対にベッドから出ちゃだめだからね。じゃないと、本気で怒るからね」
「出ないわよ。デリカのこと、好きだもの」
デリカは笑顔になって、「じゃあね。また来るわ」軽い足取りで病室から出ていった。
私は笑顔で見送った。
足音が遠ざかって行って――しんとなる。世界から切り取られたかのように、無音になる。自分の心臓の音が感じられる。どくんどくんと、私の存在を主張する。
色んな人が来てくれて私を一人から遠ざけてくれたから、安心していた。けれど一人になると、途端に寂しくなってしまう。
私は人が好き。人と話すのも、人の輪の中にいるのも、大好き。一人になると、世の中から弾かれたような気がして、心もとない。何か行動していれば気が紛らわせるけど、やることもないし、つまらない。
一人で暇、は地獄。私が今まで感じたことのない虚無。
ひまよ、ひまひま。つまらないつまらない。
誰か来ないかしら。
誰か、来い来い来い来い。と病室の扉に念を送っていると、扉が開いた。そこには、
「マリアさん。大丈夫?」
テスタ・カウルスタッグがいた。
誰か来たかと思って嬉しくなった私の気分が、一瞬で萎む。来てくれて嬉しいけど、何を話していいかわからなくて、不明瞭な感情に振り回される。
私の気持ちを他所に、近づいてきて近くの椅子に腰かけるテスタ。心配そうな顔は、見ていてとても複雑な気分になる。
「こんにちは、マリアさん」
「こんにちは、テスタ様。わざわざ来てくださり、感謝の念に堪えません。こんな姿で申し訳ございません」
「聞いたわよ。毒を盛られたんですってね。ずっと生死を彷徨っていたとか。それを聞いて、とっても心配したのよ」
本気で言っているのがわかる。何の思惑もなく、ただ心配だけがある。
なんでそんな風に心配するの? 何が目的なの?
脳内で溢れかえる言葉を何度か殺して、殺して殺して殺して、私は笑顔を作る。
「いえ、そこまで重いものではありません。毒を口にした後、すぐに吐き出せたのが良かったようです」
「良かった。いつものマリアさんの笑顔だわ。安心できる、素敵な笑顔」
心底安心したようで、微笑むテスタ。
脳がきしむ。頭がうねる。
その感情をそのまま素直に受け取れない自分。受け取ってはいけないと警鐘を鳴らして、でも、眼前の笑顔はとっても綺麗で、私は二つの感情に殺される。
ほしいのに、手を伸ばせない。私らしくない。
「ご心配をおかけしまして、申し訳ございません。身体はもう問題ないのです。本当はすぐにでも職場に復帰したいのですけれど、止められていまして」
「駄目よ。ゆっくり休んでいて。病み上がりなんだから、アース様だって許してくれるでしょう?」
「ええ。アース様をはじめとした皆様に言われます。けれど、アース様が心配で」
「さっきアース様を見たけれど、仕事の様子に鬼気迫るものがあったわ。今、彼をどうこうしようなんて考えられる人なんていないわよ。だから楽にしていて」
「そうなのですか?」
鬼気迫る様子のアース。ちょっと見てみたい。
「ええ。マリアさんがいない間に問題なんか起こせないって顔よ。愛されているのね」
「……そんなことは、ないですよ」
アースは私のことが嫌いだから。
ただ、同じ目的を持っているだけに過ぎない。私だって同じ。友人でも愛人でも家族でもなく、ただの仲間。でも、十分に仲間。それでいいし、それがいい。
「愛されてないなんて、それこそ、そんなことはないと思うけれど。貴方と一緒にいる時、アース様は楽しそうよ」
「御戯れはほどほどに願います。私は卑しい庶民の出です。アース様の外聞を汚すわけにはいきません」
「そんなこと言ってはダメよ。恋愛は自由意志だもの。想いあっているのなら、たった一度の人生、成就させないと」
それは、持っている者の意見だ。奪う者の傲慢だ。人生、目の前の道に棘がない人の怠慢だ。
「冗談はよしてください」
「冗談のつもりはないわ。もしくは、それを気にするのなら、マリアさん、私たちの養子にならない?」
バキ。
「え?」
「マリアさんの話は色んな所から聞くの。とっても優秀で、可愛らしい子だって。私もそう思うわ。話してみたら、物腰は柔らかいし、話しやすいし、笑顔がとっても素敵で、話しても話しても話したりない。もっと一緒にいたくなっちゃう」
ぐしゃ。グチャ。
「それは、光栄です」
「私はあまり子宝に恵まれなくてね。ミリアしか子供がいないの。私ももう歳だし、新しい子供はちょっとね。でも、家族はほしいわ。夫とも、ミリアに姉妹を作ってあげたいし、養子をとろうかって話は前々からしていたのよ」
みしゃみしゃみしゃ。みし。
「貴方なら、ミリアの姉妹にふさわしいと思うわ。見た目も似ているし、優秀だし、素敵だし、文句の付け所もないと思うの。貴方は孤児院出身だと聞いたわ。そんな貴方にとっても、良い話だと思うの。カウルスタッグ家は公爵家だから、優秀な貴方がこれから上に上がるための足場にもなると思うわ」
無遠慮に。
あるいは、無作法に。
私に、踏み込んでくる。
「ねえ、どう? もちろん、返事は今じゃなくてもいいわ。ゆっくり考えてくれていいの。貴方は今まで頑張ってきたんでしょう? 親がいないところから、ここまで、ずっと走り続けてきたんでしょう? もう、報われてもいいと思うわ。私は貴方のお母さんになりたいの。貴方を、抱きしめてあげたいわ」
――
叫びたくなるほど頭が苦しくて毒なんか目じゃないほど気持ちが悪くてそこに悪意がないことがはっきりしていてなんでどうしてが止まらなくて何を考えているのかきっと何も考えていないことがわかってきっと私のことなんか覚えていないんだろうということが明確で十五年私のことを少しも思い出してくれてなかったんだ簡単に子供はミリアだけだなんて言えるんだ私の名前も覚えてくれてない私の顔も考えてくれない私の過去も顧みてもくれてない私がどこで育ったかどうしてこんな人生を送っているか挙句の果てに報われるべきだなんていけじゃあしゃあと言ってのけるその本心はどこにあるのわかってるわかってるわかってる私の人生なんてこの人からすれば本当にどうでもよくて簡単に単純に忘れてしまえるもので私がこんなに色々考えてるのも無駄で意味がないことで
「それは、とっても素敵な話ですね」
綺麗に笑えている自信が、一切なかった。
「良かったわ。あ、この話はまだ私の一存なだけなの。そうなればいいなあ、なんて、それだけの話。まだ夫にもミリアにも言ってないの」
「そうなんですね」
「まずは貴方の意見を聞きたいと思ってね。公爵家の肩書があれば、貴方の人生にも多くの選択肢が生まれると思うわ。今迄考えもしなかったことも考えられる。捨ててきた夢だって、手に入れられるの。それこそ、王妃、なんてね。うふ。こんなこと言ってたら、デリカさんに怒られちゃうわね。でも、私は貴方の味方だから」
「……デリカ様とは、仲良くさせてもらっています。その話は他言無用でお願いできますか」
「そうよね。ごめんなさい。私ったら、先走っちゃって。こんな話があった、それだけ覚えておいてもらえるかしら」
テスタは微笑んで、「長居しちゃったわ。ごめんなさい、お身体が大変な時に」と席を立つ。
「いえ、来てくださって嬉しかったです。次は、元気になった姿をお見せいたします」
「ええ。元気になったら、また話しましょうね」
手を振って去っていく。それを見送って、顔を落とす。
私は、ぐちゃぐちゃだった。ぐちゃぐちゃに、されてしまった。いや、元からぐちゃぐちゃだったのを、思い出した。なんとか仮初の見た目を維持していたことを、思い出した。私は、いつだって、変われたと思い込んでいるだけ。
何も考えられない。何も、できない。
成長しても、強くなったと思っても、ダメだ。私は、私は、
「マリア、大丈夫?」
扉が開いて、ミリアが顔を出す。私を見て、ぎょっとした顔になった。
「……どうしたの?」
「なにが?」
涙声だった。しわがれて潤んで、今にも死にそうな声。
「痛いの?」
駆け寄ってくるミリア。
どうしてここにいるんだろう。学院を抜け出してきたのだろうか。この前、寂しそうな顔をさせたのに、追い払ったのに、忠犬のように私のところに戻ってくる。
痛いのはそうだけど、違うの。身体なんかどうでもよくて、胸の内側、心臓のあたりと、脳が割れるくらいに、痛い。
そしてその痛みは、ミリアの登場でもっとわからないものになる。
「貴方こそ、何よ。何しに来たの?」
「マリアが危ないって聞いて、いてもたってもいられなくて……」
「私がどうなろうと、貴方には関係ないでしょう」
いやだ。こんな棘のある言い方になってしまう自分も、もじもじと視線を足元に堕とすミリアも。
「……あのね、マリア。私、マリアが死ぬかもって聞いて、どうしようもなくなって来ちゃった。何度も怒られても、マリアは私のこと嫌いだと思っても、会いたかった」
「……」
この言葉も、真実。
ミリアは一切の嘘を言っていない。
でもね、だからなの。正直な思いだからこそ、こんなにも私は痛いの。
「……なんで?」
「え?」
「私は、持っていない人間なのに、そのことにもう慣れてしまったのに、どうして未練を残すようなことを言うの? まだ、手の中にあるかも、掴みなおせるかもしれないって、想わせるの?」
ほしくないから、いらない。
ほしいと思ってしまえば、手を伸ばしてしまう。
その先が地獄だとしても。絶対に地獄だと、わかっているのに。
「期待させるようなこと、しないでよ」
私はミリアを見つめた。真摯な目に、真摯に答えた。
「……マリアと会って、私は考えることが増えた。なんで私とマリアは似ているんだろう、って。周りが最初に騒いでいたのは何だったんだろうって。ようやく考えて、私もわかった」
「遅いわよ」
「でも、きっと、何かの間違いだと思う。私は、貴方との関係は正しくて、きっとどこかが間違っただけ。きっと、戻れると、そう思うの」
「――」
テスタの顔を思い出す。
ミリアの必死を目の前にしている。
思わずほしくなりそうになって、手の伸ばしかける私を、なんとか抑えた。
だめだ。絶対に、ダメ。どこかがおかしいのはわかってる。でも、それだって世界の仕組みなんだ。私は単なる偶然だけで捨てられたんじゃない。
大きく息を吐く。
その先は、地獄だ。絶対に手を伸ばしちゃいけない。ほしいなんて思っちゃいけない。それはきっと、私を失うことになるから。
「戻れないわよ」
「……どうしてそういうことを言うの?」
「割れた卵がもとに戻らないように、口からこぼれた水が土から帰ってこないように、なるようにしかならないから。戻るなんて未来は、存在しない。それは、つぎはぎだらけの、元のようなものでしかないの」
「そうかもしれない、けど」
「私には、必要ない」
また、拒絶してしまった。
せっかく来てくれたミリアの顔が歪む。
ごめんね。ミリアの考えていることは、よくわかっている。対等で、近くて、愛していて、私をそんな存在にして、笑いあいたいんでしょう? 貴方だって化けもの。同じ存在を探している、可哀そうな獣。
でも、私は貴方の”それ”にはなれない。
貴方の近くにいるという事は、過去、泣いていた私が私ではなくなってしまうから。私の今までの生き方がひっくり返って、過去のものになってしまうから。
私は、私だ。嘘に塗れて、人を狂わせて、理想を叶える化け物。
素直に正直に輝いて生きる、カウルスタッグ家のマリアじゃない。
「……ごめんなさい。もう、会いには来ないから」
顔を伏せたまま、背を向けるミリア。
心が痛い。私は多くの人の理想を叶えてきた。誰もが笑える世界を作ってきた。
でも、どうしてもミリアの傍にいることはできない。マリア・カウルスタッグはいてはならない。絶対に、何かが壊れていく。狂った歯車を無理矢理に動かさそうとすれば、どこかが破損するから。
「ごめんね、ミリア」
その手を握れないことを。
貴方の で、いられないことを。